慶応4年(1868)3月、明治維新の大団円である江戸城の無血開城へ向けて、最終的な談判が勝と西郷によって行われた。その会見の地となった田町の薩摩藩邸。第2京浜国道沿いに建てられた石碑は、この二人に優劣を認めず、氏名は後先なしの頭揃え。「田町薩摩邸跡。西郷南洲・勝海舟會見の地」と刻む。
14日の2度目の会見で、西郷が首を縦に振ったからいいものの、首を横に振ったらどうなっていたか。勝はその場合には、西軍を江戸の真ん中に誘導して、周りから火を放って全員焼き殺す段取りを済ませていた。火消しに火付けをさせるという、極上のアイデアが彼には閃(ひらめ)いている。清泉女子大学が島津邸跡にいま建っているが、「その場合」には東京全体の顔が火傷で著しく変わることになっていたから、ありえない。
島津に暗君なし、という。徳川幕府の開祖家康は、死ぬまで薩摩島津家を恐れていた。家康が時代を同じくしたのは島津義久で、心配のあまり義久の死を見届けるまでは生きていた。「家康は、その(義久の死)五年後の元和二年、病を発して逝去する。遺言に依り、武装して立棺に納め、西向にして久能山に葬った。それは徳川家を倒す者は必ず西から来るという奇妙な予言に依る。その鎮護のための立棺も、二百五十年後には効力が失せていた」(「島津奔(はし)る」池宮彰一郎・絶版)。
呪術の効力を失ったのは、徳川家だけではない。同じ250年後、西郷たち薩摩の家臣が、島津家に弓を引く。藩主島津久光は、下っ端の家来から蒙(こうむ)る不快な仕業に怒り心頭だ。極め付けの屈辱である廃藩令の下った夜、久光は桜島を眺める別邸で船を海に放ち、狂気のように花火を打ち上げさせて、夜っぴてそれを見つづけた。司馬遼太郎氏(作家)は、「怒りの表現としての大花火というのは、いかにも大名らしくて、なにやら芸術的」と柔らかくおっしゃっている(「明治」という国家)。君(くん)そのものの、消費期限切れである。焼け野原にならずに済んだ東京は、そうこうするうちに明治4年になっていた。
秋田屋の目印は屋号を圧倒する、秋田の銘酒「高清水」の巨大ネオンだ。もうひとつの目印は、路上に立ちこめる、もうもうたる煙。名物ハタハタ料理が供されれば、ここは秋田県以外のどこでもない。貿易センタービルを中心とした浜松町オフィス街を、外回りの仕事の最後にする知恵者も多い。
午後4時開店。ビールケースを台に立ち飲みしていると、ライトアップされた東京タワーが迫ってくる。不思議なことに、その美しさに気づいているくせして、誰も正面きって仰ごうとしない。それは、奈良興福寺の下をすこし早足で猿沢の池あたりを過ぎるとき、目尻に五重塔を入れながら無視する行為に、ほほえましいほどよく似ている。
予算2200円
東京都港区浜松町2-1-2