デビューは3歳の1998年1月。その当時からダートコースでの動きには目を見張るものがあり、所属した栗東・工藤嘉見厩舎では、ダートを中心に大活躍した先輩カミノクレッセの後継として期待されていた。
最初の2戦こそ(3)(2)着に終わったものの、名古屋の交流戦で初勝利。5月までに2勝を挙げ頭角を現した。そうなると、一生に一度のチャンスであるダービーを目指したくなるのが人情というもの。いくらダート馬とは分かっていてもだ。
だがTRのプリンシパルSに挑戦した結果は、無残なものだった。13着惨敗。しかしここで中途半端な競馬をしなかったのが、アローのその後にはいい結果をもたらす。芝適性に見切りをつけた陣営は、以降、引退まですべてダート戦に出走させた。ダートの全29戦中、掲示板を外したのは2度だけ。3年間にわたり、一線であり続けた。
この年は結局、JRA賞の最優秀ダートホースを獲得。当時、3歳ダートの3冠と位置付けられていたユニコーンS、スーパーDDを連覇。残るダービーGPも2着惜敗と大活躍した。
99年はヒザと球節を悪くしたため5戦未勝利に終わったが、00年に見事復活した。前半にフェブラリーSをV。そして秋には、第1回JCダートを制覇する。その走りは、生涯最高と評されるほど圧倒的な強さだった。
鞍上は名手・岡部。2走前のブリーダーズGCからコンビを組み、呼吸はぴったり合っていた。道中はレギュラーメンバーが猛烈なペースで逃げた。最初の100メートルこそゆったり入ったが、次の1Fは10秒4と急加速。その後も1F11秒台の超速ラップが続いた。芝並みのハイペースをアローは中団から追走。直線は残り少ないスタミナを絞り出すような消耗戦になったが、余裕を持ってサンフォードシチーを3馬身1/2突き放した。東京の2100メートルで、2分7秒2はとてつもないレコード。初代王者にふさわしい走りだった。
この年の3月には、定年で解散した工藤厩舎を引き継いだ南井克巳厩舎に転厩していた。3歳時にはレースでコンビを組んでいた元鞍上に、初のGI勝利をプレゼント。ちなみにフェブラリーSは、工藤元調教師の最後の重賞勝ちでもあった。