1905年(明治38年)、北海道石狩町生まれの畠山氏は、10代で作家を目指して上京。一時は社会主義思想にかぶれ、関東大震災のあった大正12年の暮れに、摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃した『虎ノ門事件』が起きると、犯人の難波大助と関わりがあったことから、身の危険を感じて東京を脱出、西へ向かった。行き着いたところは兵庫県の多田銀山跡。奈良時代から銅が採れ、戦国時代以降は主に銀を産出、明治以降もずっと採掘は続いていたが、人が近づかない古い坑道が無数にあるので、格好の隠れ場所だった。
畠山氏はここで莫大な埋蔵金伝説を知る。豊臣秀吉が子の秀頼のため、死の間際に黄金を隠させたというのだ。これが今日も、日本三大埋蔵金の一つに数えられる『太閤秀吉の黄金』である。
その信ぴょう性を最初は疑問視していた畠山氏だったが、ヒマにまかせて調べてみると、まんざら作り話でもなさそうだ。しかも、付近に建つ神社などの配置から、黄金は『八門遁甲』の秘法によって埋蔵されたのではないかと考えるようになった。『八門遁甲』は中国の三国時代の天才軍師、諸葛孔明の創案といわれる古兵法の一種で、その中に軍費などを安全に隠す秘術があるという。
難波大助が死刑になり、事件のほとぼりが冷めると、畠山氏は帰京して執筆活動や出版事業を始める。埋蔵金について書き始めたこともあって、各地で探索を行っている人物のウワサを聞いたり、関連する文書や絵図などの存在がわかったりすると、どんなに遠くても出掛けていき、直接その人物に会って話を聞いたり、物証を見せてもらったりした。
その成果をぼつぼつ本にしていたが、集大成ともいえるのが、昭和48年に番町書房から刊行された『日本の埋蔵金』(上・下)と、昭和54年刊の『新・日本の埋蔵金』の3冊である。なお、著作者としての同氏は諜報物も得意としていて、その分野の代表作は、市川雷蔵主演で大映で映画化された『陸軍中野学校』(全6巻)だ。
筆者がトレジャーハンティングを始めるきっかけとなったのは、畠山氏の著書『足もとにあるかもしれない宝の話』(毎日新聞社刊)だった。熊本県の天草下島で天草四郎の軍用金探しを始めると、経緯を手紙で何度か報告していた。
すると、1977年の9月のこと、筆者の勤め先に畠山氏から突然電話がかかってきたのだ。
「実は、これまで本にも書かなかったとっておきの場所があるのだが、いよいよそこを掘ることにしたんだ。金を払って人を雇えば簡単なんだが、結果が出るまでは極秘にやりたい。そこでだ、君のグループが手伝いに来てもらえば助かるんだが…」
筆者は躊躇なく答えた。
「先生、ぜひお手伝いさせてください。3、4人はすぐ集められますから」
仲間に声を掛けるのは後回し。このチャンスを逃してなるものか。埋蔵金の第一人者が絶対の自信をもって挑む発掘に参加できるなんて、夢のような話だ。後で聞いたのだが、畠山氏の著書を読んだりアドバイスを受けたりして、実際に財宝を掘り当てた者が、少なくとも2人はいるとのこと。盆暮れになると、決まって彼らから贈り物が届くのだそうだ。そんなこともあったからだろうか、70歳を過ぎたこのころ、生涯に一度くらい自分の手で埋蔵金を掘り当ててみたいという気持ちが募ってきたようだった。
数日後、筆者を含む4名の参加が決まったことの報告と打ち合わせのため東京・信濃町駅前の喫茶店に行くと、畠山氏はターゲットは幕末の徳川幕府御用金の一部で、場所は赤城山ではなく、同じ群馬県だが、三国峠の手前の永井という宿場跡であることを明かした。
三国峠も永井も知らなかったが、猿ヶ京温泉の近くと聞いておおよその位置はわかった。学生時代、猿ヶ京経由で苗場スキー場へ行ったことがあるからだ。
幕末近くに、猿ヶ京の手前にある海円寺に、馬数十頭で運び込まれた荷物がある。それを目撃した村人が、昭和の初めまで存命だった。その話をもとに、数日で消えてしまった荷物の行方を追っていた畠山氏は、全26戸がこの寺の檀家である永井に、本陣の蔵の裏から掘り進んだと思われる横穴があることを突き止め、ここが隠し場所だと考えた。
入り口がどこだかわからないので、戦前戦後にぽっかり横穴があいた場所の近くに入り口をあけて中に入る計画だった。まだ上越新幹線も関越自動車道もない'77年の秋、筆者たちの永井通いが始まった。
(続く)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。