晴朝が、徳川家康の触手から逃れるため、奥州藤原氏ゆかりの黄金を埋蔵した後、追い立てられるように越前福井へ旅立つまで過ごしていたとみられるのが会之田城。1500坪ほどの跡地には、結城家の家臣の子孫が住む2軒の家があり、うち1軒には埋蔵された黄金のリストが文献として伝わっていたという(現存はしない)。
この場所は最も注目度が高く、家康はもちろん、1700年代には大岡忠相が発掘している。このときは掘った穴が崩れて作業員11人が生き埋めとなった。その霊を弔う碑が今でも片隅に建つ。また、大正期には幕末まで結城城主だった水野家の子孫が、日本橋蛎殻町の米相場でひともうけした熊倉良助をスポンサーに大発掘を行ったが、誰一人として成功しなかった。
仲元氏は自信をもっていた。実績のある電気探知機が、きっとポイントを探り当ててくれるだろう。この機器は、地面に2本の電極を立て、その間に瞬間的に2千ボルトの高圧電流を流し、電流の変化を見る仕組みだ。金属があれば電気の流れは速くなる。
地主の伊沢氏を説得して調査の許可を取ると、仲元氏は広い邸内のめぼしい場所に探知機をかけた。すると、晴朝の時代につくられたと思われる築山の付近に反応があった。幸い地主も同意してくれたので、そこを掘ることに。重機のエンジンがうなり、見事な和風庭園は跡形もなくなった。
しかし、ひと月たっても、ふた月たっても黄金は顔を出さない。
山口と栃木を行き来しながら、この第1次発掘は数年に及び、発掘の範囲はどんどん広がっていった。そして隣接するY家に影響が出始めたとき、Y家から苦情が出た。
困った仲元氏は、この時点で初めて畠山清行氏に報告し助力を求めた。
経緯を聞いた畠山氏は、調査を継続する価値があると踏んで腰を上げる。取材をきっかけに、伊沢家ともY家とも懇意にしているから、交渉役としてはうってつけだ。結局、畠山氏が東京の女子大に行っているY家の娘さんの卒論を代筆することを条件に、いったんは話をまとめたが、家が傾くおそれが出てきたために、断念せざるを得なくなった。そこで畠山氏は、長年本にも書かずにいた“とっておきの場所”群馬県永井の発掘を持ちかけたのである。
永井の調査のてん末は、次回の畠山清行氏のところで詳しく書くことにして、仲元氏のその後について述べよう。
本吉田に未練を残していた仲元氏は、昭和の終わりから平成の初めにかけて2度ここに舞い戻り、掘っている。それには筆者も付き合った。最後は平成元年の冬だったと思うが、福島からやってきた怪しげな探知機を使う老人の示した場所を、重機のバケットがダイナミックに掘り下げると、大きな酒樽か醤油樽のような箍がはまった木の枠が出てきた。
「熊倉じゃな」
仲元氏がつぶやいた。先に述べた水野家の子孫のスポンサーの名だ。ということは…。
「やめじゃ、やめじゃ」
これ以上掘っても何も出るはずはない。仲元氏の号令で、発掘にピリオドが打たれた。以後、仲元氏も筆者もここに近づくことはなかった。
平成2年以降、仲元氏はときどき上京して、病気で入院中の畠山氏を見舞っては情報を聞き出していたようだが、平成3年に畠山氏が亡くなって間もなく、今度は仲元氏が体調を崩して入院すると、病院からちょくちょく電話がかかってくるようになった。畠山情報を基に、次の狙いを甲州武田氏が滅亡直前に埋蔵した軍用金に定めていたのだ。そして、調査予定地の地主さんとの交渉役を、筆者が務めることになった。
ちょうど勤めを辞めて独立し、雑誌に新しい埋蔵金伝説の連載を始めたところだったので、その題材にもしようと、感触を確かめに筆者が現地を訪ねた直後、仲元氏の訃報が入った。平成7年初夏のことだった。奇しくも享年は畠山氏と同じ85歳。
仲元氏が埋蔵金探しにつぎ込んだ金は、総額1億2千万円。最後まで気に掛けていた栃木の会之田城跡のあるポイントと、山梨県韮崎市内の某所は、それから19年がたった今も、まだ手付かずである。
(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。