激戦を繰り広げた総裁選は、昭和にも存在した。特に、1972年7月5日に行われた総裁選は、田中角栄氏と福田赳夫氏が熾烈なデッドヒートを繰り広げ、各一文字を取って「角福戦争」と呼ばれた。
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この選挙には田中氏、福田氏のほか大平正芳氏、三木武夫氏が出馬。田中氏が当選を果たすが、ほかの3人も後に首相を経験する大物が揃う選挙となった。
この選挙では票集めのため、「実弾」と呼ばれる現金が飛び交ったと言われる。特に、当初は有利とされていた福田氏陣営を田中氏が切り崩すために使われた。
だが、田中氏陣営は安泰ではなかったようだ。大下英治『田中角栄秘録』(イースト・プレス)によれば、投票日の朝にホテルで行われた出陣式では198人の議員が来たものの、実際には156票しか集まらなかったという。つまり、40人以上の造反者が出たことになる。そのため、2位の福田氏が150票を獲得し、わずか6票差まで迫られてしまう。さらに田中氏は、次の首相候補と目していた大平氏の名誉ために、自身の票を10票回していた。数名の裏切りが出れば負けていたことになり、まさに薄氷を踏む戦いであったと言えるだろう。
この当時、議員たちの間では、二派閥から金をもらうことを「ニッカ」、三派閥からもらうのは「サントリー」、さらにあちこちから金をもらいながら誰に投票したかは不明な様子を「オールドパー」と呼ぶ、ウイスキーの名前に絡んだ隠語も存在したとされる。田中氏の側から金を貰いながらも投票しなかった議員も存在したのだろう。
156票を獲得した1位の田中氏、150票を獲得した2位の福田氏の決選投票となったが、結果は田中氏282票、福田氏190票と圧倒的な差がついた。結果を受け、福田氏は「総理・総裁は推されてなるもので、手練手管の限りを尽くしてかき分けてなるものではない。いずれ近い将来、日本国がこの福田赳夫を必要とする時が必ずやってくる」と言葉を残した。暗に田中氏のやり方を批判していると言える。さらに、2年後に田中氏に金脈問題が起こると、福田氏は批判の急先鋒に立つ。三木内閣を挟み、福田氏は1976年に首相に就任し、雪辱を晴らした。
元より、田中氏と福田氏は対照的な人物だった。大学を出ていない田中氏に対し、福田氏は東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、大蔵省の官僚を経て政治家となった絵に描いたようなエリートコースを歩んでいた。それぞれの政治家に付けられたあだ名が、「コンピューター付きブルドーザー」(田中氏)、「黄門様(政界のご意見番であるため)」(福田氏)であることを見れば、2人の対照性は一目瞭然だろう。エリートの福田氏を、叩き上げの田中氏が破ったことは、大きな衝撃だったのだ。