国道6号
総延長●743・6㎞ 起点●東京都中央区日本橋終点●青森県青森市青い森公園前 制定年●1952年(原型は1885年)東京近郊通過地域●秋葉原、上野、北千住、春日部、宇都宮、ほか
東京から北を目指す街道として、中山道と双璧をなすのが日光街道。こちらも江戸時代に整備された五街道のひとつで、宇都宮で奥州街道と分岐している。つまりは“とうほぐ”にひた走る大街道というわけだ。だから西の大都市・京都に向かう東海道や中山道と比べれば、明らかに格下。沿線の整備も今ひとつ……と言いたいところだが、江戸時代には徳川家康を祀る日光東照宮があったおかげで、時の将軍もしばしばこの道を通り、五街道の中でも特に重要視されていたのだとか。
そんなわけで、時代は下って今の日光街道。かっぺたちが東京を目指して来るのも、参勤交代さながら江戸時代と変わらない。ただ、このご時世に新幹線も高速道路も使わず国道4号を使うなんて人はいないのであって、東京起点で見れば日光街道はその“日光”というワクワクする名に反して、しょせんは足立区内を縦断するローカル街道なのである。
で、その日光街道、最初に現れる旧宿場町は“千住”だ。そう、あの北千住。足立区民にとっては新宿、渋谷さながらの大ターミナルと認識され、都会の象徴とされているが、普通の都会人なら、北千住に行くくらいならさらにはるか北の仙台に行った方が、何かと楽しそうな気もする。ともあれ足立区の誇り、北千住が日光街道の最初の関門である。
かつての千住宿は、現在の千住大橋前後、つまり隅田川を挟んで南千住と北千住一帯に広がっていたとか。でも、南千住(こちらは荒川区)は江戸時代に教科書でお馴染み『解体新書』の解剖が行われた処刑場があり、山谷の貧民窟が連なるいわば底辺の町。最近こそ高層マンションが相次いで建設されてイメージ刷新を図っているが、そこでも警察庁長官が狙撃されたりと、おっかない町であることは変わらない。つまりは、日光街道(国道4号)は他の街道とくらべても、いち早く命の危機が迫ってくるトンデモ街道であるということなのだ。
ちなみに足立区民に言わせると、「環七がいわゆる38度線」。つまり、環七よりも北に行くと、北朝鮮さながらの低所得者が集まる街になって治安も乱れて魑魅魍魎……というわけだ。だが、それはあくまでも足立区内でのお話で、低レベルの争いである。足立区に続く日光街道をゆけば、隅田川を渡る手前の南千住付近からすでに漂うデンジャラスタウン足立区のかほり。
北千住のとある飲み屋で、「4号をずっと行けば日光だよ」と誇らしげに語るおっさんに出会ったことがあるが、そのときは心底足立区が嫌いになったものである。