花子はミシン裁縫の技術を市左衛門から伝授された。器用な花子はすぐに技術を習得し、自分の家に市左衛門の輸入したミシンを備えて縫製業を始めてみた。同業者がまだ少なかったため、郵便の逓送用行嚢(こうのう=郵便物を入れて輸送する袋)など、注文が次々にあった。商売は大繁盛し、やがて、ちゃぶ台の製造よりもミシン縫製が主な家業になっていった。
花子は縫い子を十数人も雇い、下請けも十数軒使った。1カ月に数百円もの収入になる事業を、花子はほとんど一人で取り仕切ったという。
教員の初任給がおよそ5円、白米10キロが50銭くらいだった明治20年頃、個人業で数百円は莫大な金額だ。とうとう一閑張り(いっかんばり、ちゃぶ台の一種)は止めになったという。
徳次の生まれた翌年の明治27年、日清戦争が勃発した。陸軍省から出征兵士のための軍用シャツ縫製の注文が入る。昼夜を通して仕事をしても間に合わず、寝る時間もないような日々が続いた。しかし、当時は軍の注文を断るなど、考えられないことだった。
早川家が徳次を養子に出したのは元々、体の丈夫ではなかった花子が、過労が祟(たた)ってか胸を病み、幼い徳次の世話ができなくなったためだった。
徳次には7歳年長の姉・登鯉子、4歳年長の兄・政治がいる。政吉も花子も再婚だったので、さらに母親の異なる兄の彦太郎、姉の静子もいるが、再婚する前に彦太郎は早川を出て他家を継ぎ、静子はすでに嫁いでいた。
(経済ジャーナリスト・清水石比古)