内職に明け暮れるだけの日々だった。遊びたい盛りの年頃なのに戸外で遊ぶことは全くできなくなった。
問屋と長屋の、マッチ箱を背にした往復だけが外に出られる時間だった。途中で同じ年頃の子供達が遊んでいるのを見かけると、羨(うらや)ましく思いながら、見ないふりで通り過ぎる。徳次はあり合わせの材料で手製の玩具を作って気を紛(まぎ)らわせることもあった。
学校をやめさせられてから半年近くが経った。この明治34(1901)年9月15日、徳次は熊八の家を離れる。
学校にも行かせてもらえず、栄養失調の体で内職仕事をさせられている徳次を不憫(ふびん)に思っていた井上せいが、本所の錺(かざり)職人の家で丁稚奉公できるように計らってくれたのだ。
錺というのは金属加工のことで、かつては簪(かんざし)や仏具・神具などの飾りを作っていた。
7年7カ月という長い期限の定められた年季奉公だった。徳次はこの丁稚奉公の話を聞いて心の底から嬉しかった。義母と内職から離れられる。新しい仕事をいろいろ想像してみた。
奉公を始める9月15日、東大工町の長屋から本所北二葉町二番地(現石原2、3丁目付近)の錺職人の家まで、かれこれ1時間ばかりの道のりを、盲目の井上せいに手を引かれて徳次は歩いた。後に、この時のことを述懐してこう記している。
“この時の井上さんに引かれた温かかった手のひらのぬくもりは、今なおこの私の手の中に残っている。私の生涯の門出は、盲目の井上さんによってひらかれたのであった”。(経済ジャーナリスト・清水石比古)