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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(11)

 早川家が徳次を出野家に養子に出した時の条件に、普通以上の学業を修めさせることという項目があったが、結局、通い始めて1年で尋常小学校をやめさせられた。出野家には徳次を学校にやる余裕などなかった。
 内職に明け暮れるだけの日々だった。遊びたい盛りの年頃なのに戸外で遊ぶことは全くできなくなった。
 問屋と長屋の、マッチ箱を背にした往復だけが外に出られる時間だった。途中で同じ年頃の子供達が遊んでいるのを見かけると、羨(うらや)ましく思いながら、見ないふりで通り過ぎる。徳次はあり合わせの材料で手製の玩具を作って気を紛(まぎ)らわせることもあった。
 学校をやめさせられてから半年近くが経った。この明治34(1901)年9月15日、徳次は熊八の家を離れる。
 学校にも行かせてもらえず、栄養失調の体で内職仕事をさせられている徳次を不憫(ふびん)に思っていた井上せいが、本所の錺(かざり)職人の家で丁稚奉公できるように計らってくれたのだ。
 錺というのは金属加工のことで、かつては簪(かんざし)や仏具・神具などの飾りを作っていた。
 7年7カ月という長い期限の定められた年季奉公だった。徳次はこの丁稚奉公の話を聞いて心の底から嬉しかった。義母と内職から離れられる。新しい仕事をいろいろ想像してみた。
 奉公を始める9月15日、東大工町の長屋から本所北二葉町二番地(現石原2、3丁目付近)の錺職人の家まで、かれこれ1時間ばかりの道のりを、盲目の井上せいに手を引かれて徳次は歩いた。後に、この時のことを述懐してこう記している。
 “この時の井上さんに引かれた温かかった手のひらのぬくもりは、今なおこの私の手の中に残っている。私の生涯の門出は、盲目の井上さんによってひらかれたのであった”。(経済ジャーナリスト・清水石比古)

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