これは平安時代、菅原道真ほか貴族や学者が858年〜887年の出来事を編纂した歴史書『日本三代実録』(三代=清和天皇、陽成天皇、光孝天皇)の一節だ。878年11月1日、関東地方南部を中心に大きな地震が襲った(相模・武蔵地震)。『三代実録』を見ても《この日》の揺れのすさまじさが伝わってくる。
「専門家の間で、この相模・武蔵地震の震源域は神奈川県中部を走る伊勢原断層で、関東直下型だったという見方が強い。地震の規模はM7.4、最大震度が7程度だったと推定され、記録にもあるように家屋倒壊、さらに火災も加わって多くの死者が出たという。京都からの視点で記されている可能性が高いことから、かなり広い範囲にわたり余震が続いていたという見方ができます」(サイエンスライター)
当時の日本列島は地震の活動期に当たるとされ、巨大地震が立て続けに起きていた。
869年には三陸沖で貞観地震(M8.3以上)が発生。地震と大津波で1000人以上が犠牲になったという。同時期には鳥取県でも大地震が起き、その前年には兵庫県でM7の播磨地震、貞観地震の9年後には冒頭の相模・武蔵地震、そして18年後の887年、ついには南海トラフで東海・東南海・南海の3連動タイプの仁和地震が発生している。
この時代の地震活動について、地震学者で武蔵野学院大特任教授の島村英紀氏が説明する。
「貞観時代と、地震が活発に起きている現代が同じような地震活動期だと言われるが、それに関しては、さらに学問的な検証が必要です。しかし双方、巨大地震によって日本列島の地下の基盤岩が動き、地震が起こりやすい状態にあることは間違いありません。今、首都圏では直下型地震がいつ起こっても不思議ではない状況にあるし、海溝型の大地震の可能性もある。さらに、二つの地震が一気に起こる可能性さえあるのです。江戸時代の18世紀から19世紀にかけても地震が頻発していましたが、20世紀は少なく、それが当たり前の状態となっていた。しかし、東日本大震災によって、地震が頻発する時代に戻ったと思われます」
前述の通り、関東直下型と思われる相模・武蔵地震は三陸沖の貞観地震の9年後。今年は東日本大震災から6年がすぎた。西日本で熊本地震に鳥取中部地震、さらに福島県沖でも大きな地震が発生していることも不気味だ。
『日本三大実録』には、当時全国で発生した天変地異についても記録されている。
例えば、863年の中越地震については、《越中越後等の国、地大いに震ひき。陵谷ところをかへ、水泉湧き出で、民の蘆舎をこば(壊)ち、圧死する者多かりき。これより後、毎日常に震ひき》。激しい揺れで地割れが起きて至る場所から地下水が噴き出し、民家の倒壊により多くの人が圧死したという。
それらの記録の中で興味深いのは、やはり仁和地震の様子を克明に著した記述だ。現代語訳すると以下となる。
《午後4時頃に大地震が起き、数刻を経ても震動が続いた。天皇は仁壽殿(殿舎)から出て紫震殿の南庭に移動した。そして大藏省に命じて七丈の幄(仮小屋)を二つ建てさせ、御在所とした。役所の倉屋および東西京の民衆の家は相当部分が転倒・倒壊し、その下になって殺された者が多い。あるいは失神して頓死した者もある。10時頃にまた地震が三度。全国(五畿内・七道諸国)でも、この同日に大地が大いに震えた。官舍が多く損壊し、海潮が陸に漲ってきて、その津波によって溺死したものは、数えることができないほどである。そのような津波の被害の中でも、摂津国の被害はもっとも甚だしいものがあった》
「この時の地震の規模はM8〜8.6とされている。地震動による被害もさることながら、驚くのは津波被害の大きさです。南海トラフで起きた地震にも関わらず、摂津国、大阪・兵庫にまで巨大津波が押し寄せたという。『日本三代実録』は、仁和地震の1カ月後に終了しているのですが、それまでの間にも余震と見られる記述が多くある。相当な被害が出たと思われます」(前出・サイエンスライター)