のちには市内のプロ楽団などが招かれ、昭和になっても根岸競馬の音楽演奏は続けられた。
明治天皇のたびたびの御観覧については、単なるご自身の競馬好きといったことだけではなく、そこには大きな政治的な意味が隠されていたとの見方もある。というのは、幕末に欧米と結んだ不平等条約の内容を、対等なものに修正するため、明治新政府は長い間、苦闘を続けていたのだ。そうした外交交渉を好転させるため、天皇も居留外国人らに対するムードづくりに努められたというのだ。
1905年(明治38)年の春季競馬には、のちに帝室御賞典と呼ばれ、現在の天皇賞に当たるレースの開催が設けられた。これは英国人の希望により、新設された経緯が強い。当時、日本は日露戦争下にあり、日英同盟を結んでいた英国から間接的な支援を受けていた。それらの事情もあって、宮内省も無下に断ることができなかったようだ。このレースは以後、春秋に行われていくが、優勝はすべて豪州産馬にさらわれている。
それから月日を経た1923年(大正12)年5月12日、春の帝室御賞典が行われた日に、摂政宮時代の昭和天皇が根岸競馬においでになっている。9月1日の関東大震災の4カ月前のことであった。
※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬