その東京競馬倶楽部主催の下、明治43年(1910)年7月、第1回競馬が開催された。政府補助による賞金を目指してレースが行われたわけだが、馬券禁止とあって競馬ファンの関心はまったくなく、4日間の入場者数はわずか500人弱に終わった。
その後、入場者数、数百人足らずという沈滞ムードから何とか抜け出そうとした東京競馬倶楽部は大正3(1914)年、勝ち馬の的中者には、デパートの商品券を進呈するという余興を始めた。この趣向はたちまち1万2000人を超える観客を呼び込み、馬券が復活するまでの間、観客の興味をつなぎ止めたのである。
また、目黒競馬場は競馬以外でも多目的に使用された。明治44(1911)年には、アメリカの飛行機・マークスが模範飛行を行い、大正4(1915)年には、自動車レースが開催されるなど、各種催し物の会場ともなった。
そして、紆余曲折を経て迎えた大正12(1923)年4月、競馬法が制定され、ようやく馬券の発売が認可された。発禁以降、およそ15年後のことで、これに伴い本格的な競馬人気が復活した。
昭和7(1932)年4月24日には、4歳馬(現3歳馬)の日本一を決める第1回「東京優駿大競走(日本ダービー)」が開催され、函館孫作騎手が手綱を取った1番人気のワカタカ(東原玉造厩舎)が4馬身差の圧勝を収め、記念すべき初代ダービー馬に輝いた。ちなみに、このときの勝ち時計は芝2400m2分45秒2。雨天の中での不良馬場で行われたこともあったが、現在よりも20秒ほど遅い時計には、今日に至るまでの馬匹改良の進歩の歴史を感じさせられる。
また、当時は競馬を観戦するにあたり、入場料5円の1等席は羽織、袴、または洋服の着用が義務付けられていた。そのため、近くには貸衣装屋まであったという。
※参考文献=目黒区50年史/月刊めぐろ(80年5月号)/みどりの散歩道