山田さんは歌手を夢見て、福岡県大牟田市から上京。作曲家の故・浜口庫之助さんのマネージャーを経て音楽プロデューサーに転身した。
「当時、竜鉄也という盲目の演歌歌手の『奥飛騨慕情』が大ヒットし、担当マネージャーがフジテレビの『夜のヒットスタジオ』に出演依頼に行ったのですが、番組プロデューサーのH氏が差別発言をした上に拒否した。これに山田さんが激怒して、フジに乗り込みH氏に鉄拳制裁を加えたのは有名な話。'80年代は音楽番組全盛で、どのテレビ局にも悪徳プロデューサーがいましたからね。ビビらせるには十分でした」(音楽業界関係者)
そんなキャラクターから、いつの日か“音楽業界のマイク・タイソン”とのアダ名までついた山田さんだが、“音楽を通じての文化交流”が口癖で、日中韓の友好関係を築くために尾形大作の『無錫旅情』や『大連の街から』、前述の『珍島物語』をプロデュースした。
「一見こわもてに見えますが、優しくて曲がったことが大嫌い。親しくなったマネージャーやテレビ局のスタッフ、マスコミ関係者には温かく接し、誰からも好かれていましたよ」(生前から親しくしていたレコード会社元役員)
当時、オリコンのチャートがおかしいと仕組も含めて暴露したことがあった。オリコンの集計システムの穴を指摘してお金でチャートの順位が買えることを実名で暴露したことは音楽業界ばかりではなく、社会に衝撃を与えた。
スキンヘッドに口ひげのこわもてながら、いじめ問題に取り組むなど弱者に寄り添う優しい人柄でも知られた。
また、海外からの要人からも愛されていたという。
「米国大統領だったケネディのファミリーとも親しく、年1回のファミリーが主催するチャリティーゴルフコンペには、日本人で唯一、招待されていた。英語もほとんど話せなかったのですが、人の心を鷲掴みにしてしまう、不思議な魅力がある人でした」(大手芸能プロ幹部)
加えて数年前には、全米を代表するフォークグループ『ピーター・ポール&マリー』のメンバーだったピーター・ヤローや、『ウィーン少年合唱団』にも“いじめ撲滅”をテーマにした楽曲を提供。自ら文化交流を実践し続けた。
「確かに、2年ほど前から体調が悪いとは聞いていましたが、殴っても死なないような山田さんのこと、亡くなったなんて今でも信じられません」(同)
愛された名音楽プロデューサー。人生いろいろ…「ガンダーラ」に旅立った山田廣作さんに改めて合掌!