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田中角栄「名勝負物語」 第五番 小沢一郎(2)

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提供:週刊実話

 小沢佐重喜代議士の急逝により、長男の一郎を後継と決めた佐重喜後援会だったが、では、自民党のどの派閥に預けるかで難渋した。

 佐重喜は藤山(愛一郎)派所属だったが、3度目の総裁選出馬で敗れた藤山の“凋落”ぶりは歴然、これでは若い一郎の将来に不安ありで、まず藤山派入りが消えた。その間隙を縫うようにして、佐重喜と同じ岩手県出身の鈴木善幸(のちに首相)や、夫人が岩手県出身というツテを活かしての大平正芳(のちに首相)ら前尾(繁三郎)派、あるいは水田(三喜男)派などが「責任を持って一郎君の面倒を見る」と、誘いの手を入れてきた背景もあった。当時は派閥全盛の時代、各派は“増強”に躍起だったのである。

 しかし、最終的に「一郎は勢いのある政治家につけるべき」との声が高まり、佐藤(栄作)派幹部としての田中角栄に“白矢”を立てた。時に田中は、すでに大蔵大臣、自民党政調会長などの要職を踏み、その勢いから近々の総理・総裁候補に間違いなしとみられ、「日の出の幹事長」との声があったのだった。

 昭和43(1968)年の秋口、一郎は母・みちと後援会長の3人で上京、平河町の砂防会館内にあった田中角栄事務所を訪ねた。初めての田中、小沢の出会いの場である。

 当時、田中の“金庫番”にして、のちに「越山会の女王」と謳われることになる秘書の佐藤昭子は、筆者にこう語ってくれたことがあった。
「あのときの“イッちゃん(一郎)”は詰め襟の学生服姿で、とても初々しかった印象があった。田中の迫力もあってか、ほとんど何もしゃべらなかった。田中とのやりとりは、『君は何年生まれか』『昭和17年です』『ああ、ワシの死んだせがれと一緒だ』といった程度、ほんの短いものだった」

 ここで田中が、「ワシの死んだせがれと一緒だ」とつぶやいたのは、数え6歳で病死した長男・正法を意味している。正法の誕生から2年後に生まれたのが、長女・真紀子(のちの外相)である。

 正法の死は相当にショックだったようで、当時、田中は田中土建工業社長として花街の神楽坂によく出入りしていたが、筆者は田中の座敷によく出ていた芸者のこんな証言を聞いている。
「田中先生は、当時は『おヒゲさん』の愛称で芸者衆からとても人気がありました。お座敷は常に笑いが絶えぬ明るいものでしたが、息子さんを亡くした直後にいらしたときは、一変したものです。しゃべらず、うつむきながら、しきりに盃をあけていらっしゃった。先生の落ち込みぶりが知れたものです」

★「田中流」選挙作法の伝授

 さて、2人の出会いから2カ月ほど経った43年暮れ、小沢はバス5台を連ね、後援会幹部、支援者ら約200人とともに、岩手県水沢から東京・目白の田中邸にやってきた。じつは、これは初めて会ったときの田中一流の指示であった。父親の急逝にともなって後継問題で後援会がモメたことは、組織がいささか弛んでいることを物語る。まず、その引き締めが不可欠だ。それには、自分が後援会幹部の前で念を押すのが一番効果的であるとしたのである。

 早朝、バスを降りた一行が田中邸母屋前の庭に通されると、庭にはテーブルが並び、食事に加えて早朝だというのに酒、ビール、ジュースまでが林立しているではないか。後援会幹部が、「なるほど、これが噂に高い“型破り幹事長”なのか」と目を丸くしていると、やおら田中が立ち上がり、小沢を傍らに立たせてあいさつを始めたのだった。
「皆さんッ。ワシはね、長男を数え6歳で亡くしておるんです。生きておれば、この小沢君と同じ年だ。小沢君を見ていると、まるで自分の子供を見ているような思いがする。小沢君は、面構えもなかなかよろしい。公認は、この田中角栄が責任を持つから心配なきよう。当選後は、このワシが育てる。後援会の皆さんは一致団結、なんとしても小沢君を当選させてほしい」

 あいさつはあいさつで終わらず、政治の現状に触れての演説と化し、じつに1時間も続いたのだった。田中の演説は相手が誰であれ、聴き手の数が多かろうが少なかろうが関係なく、手抜一切なしの全力投球、誠心誠意で語るから説得力がある。ここでの後援会幹部らもまた、その迫力に圧倒されながらも感激ひとしお、小沢の当選へ向けて団結を新たにしたのだった。

 明けて44年1月、小沢は新年のあいさつ方々、平河町の自民党本部4階の幹事長室に田中を訪れている。ここではやはり田中の秘書であった早坂茂三(のちに政治評論家)が、2人の様子を目撃している。早坂は、筆者にこう言ったものだった。
「オヤジさん(田中のこと)は、改めて選挙作法を伝授していた。『まず、名刺をつくれ。1枚1枚配って、戸別訪問を3万軒だ。そのうえで、辻説法をやって5万人と握手しろ。辻説法は、雨でも雪でもやれ。そうすれば、初めて選挙区の事情が分かる。選挙区は、日本の縮図だ。それが分かると、将来、必ずおまえの役に立つ。親の七光りなんてあてにしているようでは、とてもモノにならない。カネも、使えばなくなる。ワシの言ったように、やり遂げてみろ。そうした中で、初めて当選の可能性が出てくる。選挙に、僥倖などはない』と。それを聞き終わると、小沢は一言、『はい』と言っていた。コチコチに、硬くなっていたナ」
(文中敬称略/この項つづく)

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小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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