明治維新の太政官布告以来のわが官僚制度は、世界に冠たるものと言っていい。官僚は頭脳明晰、完璧な法律知識を持ち、幹部クラスとなれば国家経営のあらゆる歴史が頭に入っており、問題が起こったときの対応ノウハウもすべて掌握しているという優秀さである。一方で、プライドは人一倍高く、能力なしと見極めた政治家とは内心で一線を引いているのが常だ。つまり政治家側にとっては、ある意味、部下であるこの官僚をコントロールするのは至難のワザと言っていいのである。
ところが、戦後政治家の中でも田中角栄だけは“別格”だった。田中以上にそうした官僚をうまく使った政治家はいないというのが、定理になっている。歴代の大物政治家、事務次官や局長経験の官僚の多くが、まず否定しない。だからこそ、田中による前回記した戦後復興の基礎を固めた「道路三法」など33本の議員立法も、官僚の抵抗を排除して成立させることができたということになる。官僚の協力がなければ、成立などはなかったということである。
なぜ田中は、官僚使いの名手とされたのか。20数年前になるが、筆者は当時、田中の秘書だった故・早坂茂三(後に政治評論家)から、こういう言い回しで話を聞いている。
「要するに、官僚は田中の超頭脳、政治力に平伏したということだ。その上で、この男となら日本の再建のために肩を組めると認めたからだ。また、田中は一方で官僚の属性も知り尽くしていたことが大きい。彼らは優秀ではあるが、時代の変化に対応する法運用となると融通が利かない。最後の責任を負わされることも嫌う。官僚の人生観は、役所と退職後の就職先がセット、ということなども熟知していた。ために、田中は法運用の知恵を与えた上で、結果責任はすべて自分が背負ったし、退職後の就職の面倒などもよく見た。田中と官僚の稀有な連帯感が成立していたからと言っていいだろう」
官僚との関係で、田中一流の人心収攬の妙が“機能”した部分も、また見逃せない。先の「道路三法」は最終的に昭和31年3月に成立したのだが、その前年にこんなエピソードを残している。
その年、田中は〈旧新潟3区〉内に「中永線」という舗装道路を完成させた。これで3区内の北西側に住む人たちはわざわざ山を迂回して市街地の長岡に出るという困難から解放されることになった。
さて、エピソードの核心はここにある。当時、中永線竣工式の予算は60万円だったのだが、田中は式そのものの費用を30万円に切り詰めさせ、残った30万円を“有効”に使ってみせた。その30万円で、何と男もの女もの合わせてすべて和服の反物を買ってしまったのだった。道路完成で世話になった建設省の役人と、その奥さんに贈るためであった。当時を知る「越山会」古老は、次のように言っていた。
「田中先生は反物屋に持って来させた中から、『アイツはこれだ。こっちの方が似合う』などと、自分で色柄を選んで決めていた。反物などは、せっかくもらっても似合わなければありがた味も半減する。実は先生は、役人本人や奥さんの年齢、容姿などを事前に調べ上げていたんだ。人に喜んでもらうということは、ここまで心を配らなければならないのかと思い知らされた。時に先生はまだ30代半ば。この若さでここまで人の心をつかむ術を知り尽くしていたとは驚きだった。以後の先生を見ていても、これは同じだった。人との接し方は何事も誠心誠意、巧まざる形でやっていた」
かくして、田中は「道路三法」など議員立法を次々に成立させていく中で、「官庁中の官庁」である大蔵省にその存在を認知させる一方、とりわけ建設省に大きな拠点をつくることに成功した。時に、建設省は昭和23年の内務省解体により分離独立して10年にも満たぬ新興官庁だったが、わが国の経済の高度成長の過程で強大化し、予算の差配、分捕りに大きな力を発揮したことで「利権官庁」などともヤユされたものだった。
やがて、田中がさらに政治力を付けていく中で、田中とこの建設省は表裏一体化した。例えば、陳情を受けた新潟の橋一本の建設、補修の予算でも、田中は直ちに同省局長に電話、その場で予算付けOKを取り付けたものである。ナミの議員が橋の建設、補修の予算を取り付けるには、建設省に“お百度”を踏まなければ実現はしない。これを、田中は「頼むよ」の電話一本で決めていたのだった。「田中は建設省を壟断、手中にしてしまった」の声も出たのだった。
そうした中で、田中に初入閣の声が掛かった。昭和32年の第2次岸(信介)内閣の郵政大臣、戦後初の30代(39歳)での大臣就任だった。これを機に田中は炭管事件に端を発した「雌伏の時代」からの完全脱却を果たすと同時に、「型破り大臣」として何ともハデな話題を次々に提供することになる。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。