だが、一発逆転を期した大勝負“ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ”の成功により、弱小団体の状況は一変。大仁田厚の人気は爆アゲ状態となった。
1989年に大仁田厚が立ち上げたFMWは、正式名称にもあるように、もともとはマーシャルアーツ=格闘技を多分に意識した団体であった。初期に興行の軸となったのは、青柳政司率いる誠心会館との抗争で、プロレス対空手の異種格闘技戦。
ほかの参加選手を見ても、日本勢ではサンボ浅子、ザ・シューター、キックボクシングの上田勝次に柔道の徳田光輝。外国勢も柔道世界選手権95キロ超級優勝のグレゴリー・ベリチェフやテコンドーのリー・ガクスーといったように、格闘色を前面に出した面々がそろっていた。
「とはいえ、大仁田が最初に全日本プロレスを引退したのは、膝の粉砕骨折によってまともに動けなくなったため。当然、ガチの格闘技などできるはずもなく、UWFブームにあやかって格闘技を名乗ったに過ぎません」(プロレスライター)
しかし、それは観客も承知のこと。当時はUWFの影響で、プロレス界全体がスポーツライクな方向へと進み、本来持ち合わせていたはずの猥雑さが薄れていた。そのことへの反発から、インチキ臭さを求める物好きなファンが、FMWの会場に集まって来た。
'90年1月に開催された総合格闘技オープントーナメントで、“イス大王”の栗栖正伸が優勝した際、暴動寸前まで観客席が荒れたのは、もちろん「格闘技をイス攻撃で冒とくしたから」ではない。それは参加選手たちの未熟さによる低調な試合ぶりへの不満であり、さらには暴動すらも楽しもうというマニアならではの悪癖であった。
「当時“FMWですら楽しめてこそプロレス通”という冷やかしムードは、確かに強かったですね」(同)
しかし、そんな空気を変えることになったのが、アイディア勝負の過激なデスマッチ路線であった。
前出のトーナメント覇者である栗栖との完全決着のため、同年2月に行われた有刺鉄線バリケードマットマッチでは、大仁田と栗栖が共に鉄トゲで傷だらけになり、格闘技とはまた別の意味でのリアリティーを訴えかけた。
ストリートファイト・デスマッチでは、選手たちが観客席を練り歩くことで、会場の一体感を醸成することにもなった。
メジャー団体では見られないうさん臭さに釣られて、物見遊山のつもりで来場した観客の中から、徐々にではあるが熱狂的な大仁田信者が生まれ始めた。
そうしたデスマッチ路線の集大成となったのが、'90年8月4日、旧汐留駅跡地の野外特設会場で行われたノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチだ。
そこに至るまでのストーリー−−FMW創設時から大仁田の盟友として戦ってきたターザン後藤の造反というアングルも、一部信者を除く大半の観客にとっては二の次のこと。
朝からの雨が午後にはすっかりあがる幸運にも恵まれ、「電流爆破っていったい何だ?」との興味から集まった観衆は4520人。旗揚げから1年に満たない団体としては異例のビッグマッチとなった。
だが、あくまでも大半の観客は怖いもの見たさの興味本位に過ぎず、これを満足させて初めて成功となる。大観衆を前にしてショッパイ試合をした日には、評判ガタ落ちとなり、逆に団体の未来を失うことにもなる。
「リングの周りに張り巡らせたロープ代わりの有刺鉄線に電流を流し、無数のプラスチック爆弾をぶら下げる。そんな説明を聞いても半笑いのままの観客は多かった。取材記者たちも“ショボくて記事にならないかも”と半信半疑でした」(スポーツ紙記者)
だが、試合開始のゴングが鳴ってまもなく、そんな疑念は消し飛ぶことになる。
大仁田が有刺鉄線に触れた瞬間、パパーン! と激しい爆破音が鳴り響き、リング上が隠れるほどの火花が上がると、会場の全員が息を呑むことになる。そうして一瞬の間があった後、客席のあちこちからざわめきが湧き起こった。
そこからは大仁田と後藤、それぞれが有刺鉄線に近づくたびに悲鳴が上がり、耳を押さえて涙ぐむ観客もいたほどだった。
何度かの爆発が繰り返されるうちに両者のコスチュームは裂け、おびただしい血が流れ、火薬の臭いと煙が立ち込め、ついには「分かったからもうやめてくれ!」と観客が絶叫する。
サンダーファイヤー・パワーボムの3連発で大仁田が勝利すると、歓声よりも「ようやく終わった」との安堵の声が聞かれたほどだった。
もはやFMWを好奇の目で見る者はおらず、自然発生した大仁田コールは延々と止むことがなかった。