※ ※ ※
新日本プロレス真夏の祭典「G1クライマックス」第9回大会。1999年8月15日、両国国技館6連戦でその最後に勝ち名乗りを上げたのは中西学だった。
武藤敬司のテクニックに苦しみながらも、力任せに十八番のアルゼンチン・バックブリーカーで担ぎ上げると、14分43秒、武藤の口から「ギブアップ」の声が発せられた。
バルセロナ五輪レスリング・フリースタイル100キロ級日本代表の肩書きを引っさげ、新日入りして7年目。それまでシングル戦での実績が皆無に等しかった中西は、G1でもまったくのダークホースであったが、はち切れんばかりの筋肉をまとった体は説得力十分で、この勝利は新時代の到来を強くファンに印象づけた。
翌年の第10回大会においても、決勝こそ佐々木健介に敗れはしたが、ここでも準優勝と結果を残した中西。永田裕志、天山広吉、小島聡といったいわゆる“第三世代”の中から一歩抜け出して、天下を取るのも間近かと思われた。
「この時期の中西が新日にプッシュされた理由は、総合格闘技進出に向けて名前を売るためでした」(プロレスライター)
実際に水面下では、あのヒクソン・グレイシーに対戦オファーを出していたという。
「結局、ヒクソン側が断ってこの対戦は頓挫したようです。新日側が主催興行での対戦を主張したものの、ヒクソンとしてはプロレスのリングではやりたくないということだったのですが、それに加えて中西の肉体とパワー、そしてレスリング実績を考慮したときに“負ける危険性もある”との判断があったとも言われています」(同)
だが、それはヒクソン側の杞憂にすぎなかった。確かに中西の肉体や潜在能力はヒクソンを凌駕していたかもしれないが、不器用さという致命的な弱点があり、とりわけ打撃への対応力はほぼゼロだった。
「筋肉が付きすぎて腕をスムーズに動かせず、顔面をガードしようにも、どうしても隙間ができてしまう…なんていう嘘のような話もありました」(同)
ともかく、防御センス皆無というのは結果が示していて、2003年6月のK−1大会ではアマチュア相撲出身のTOAと対戦(K−1ルール)し、顔面へのパンチでKO負けを喫している。
実のところ、中西の踏み台として用意されたような相手だっただけに、この結果には関係者たちもさぞかし落胆したことだろう。
★バラエティーで天然キャラ炸裂
格闘技への進出失敗と機を同じくして、その後の中西はプロレスラーとしても長く低迷することになる。
「不器用なのは格闘技に限ったことではなく、プロレスにおいても同様でした。得意技のアルゼンチンにしても、いつも技の入り方がバラバラだから受ける相手はタイミングが取れない。それでいてパワーは人並み外れているので、『ケガしそうで危ないから中西とはやりたくない』という選手が何人もいました。そんな仲間内の評判もあって、次第にトップクラスで試合が組まれる機会が減っていったのです」(同)
不器用ということでは若手時代のアメリカ遠征においても同様。映画監督の黒澤明にちなんで「クロサワ」と名乗ったものの、試合中のアクシデントでホーク・ウォリアーの腕を折ってしまい、そのため長く試合を干されたという武勇伝(?)もある。
そうした経緯もあって、2003年以降はケンドー・カシンにいじられたり、エンタメプロレスの「レッスルランド」で海賊男ガスパーに扮するなど、中西は“おもしろレスラー”の道を進むことになる。
同時期に出演していたバラエティー番組『さんまのSUPERからくりTV』では、天然キャラが好評を博したため、これをプロレス側で利用したという面もあった。この時期、集客に苦しんでいた新日としては、どんな形であれチケット販売に直結する材料を必要としていたのだ。
その結果、中西に久々のチャンスが巡ってくる。
2009年5月6日、後楽園ホール。当時、IWGP王者の棚橋弘至が直前の3日に防衛を果たし、急きょ中西を挑戦者に指名したのだ。ゴールデンウイーク最終日でチケットの売れ行きが今ひとつだったため、タイトル戦で盛り上げたいという意図からのものだった。
ともかく、またとないチャンスに奮起した中西は、これまでのプロレス人生を温かく見守ってきてくれたファンの声援に押され、特大☆中西ジャーマンで見事にピンフォール勝ちを果たす。G1制覇から10年を経て、42歳にして初、ようやくのIWGP戴冠であった。
中西学
**************************************
PROFILE●1967年1月22日生まれ。京都府京都市出身。身長186㎝、体重120㎏。
得意技/アルゼンチン・バックブリーカー、逆水平チョップ。