10万人に1人という特殊な病魔に襲われながら、周囲にそれを悟らせないよう仕事を続けていた。生前に墓や葬儀の手配を済ませ、会葬者への挨拶状まで自ら用意した見事な“終活”ぶりに多くが感動した。
連載を通して、本誌は2年間、金子氏を見続けている。
振り返ると、異変は昨年4月頃にはあった。風邪でもないのに、ひどく咳込むようになっていた。
「原発事故の影響じゃなければいいんですが」
このときはそう言って笑っていた。しかしその後も咳は止まらず、少しずつ確実に悪化していった。昨夏には講演中でも咳が目立つようになった。
「でもテレビ収録のときはなぜか咳が止まるんです」
本人が言う通り、テレビに映る金子氏は最後まで変わらず元気だった。
あくまで“現場”にこだわる金子氏と、大阪の飛田新地を取材した時のこと。ちょいの間エリアでも、その人気は絶大だった。
「この娘は今日からなんよ。金子さん、初めての客になってあげて」
客引きのおばちゃんから熱心に声をかけられる。遊郭ならではの営業トークなのに、金子氏は真剣に困り果てていた。
真冬の札幌にも行った。マイナス10℃の街で、撮影用に雪と戯れてくれた。撮影後はあまりの寒さに動けなくなっていた。
真夏の沖縄で嘉手納基地を取材したときは、警備兵に基地内の撮影を注意された。軽機関銃を携えた警備兵に怒られているのに、なぜか子供のように楽しそうだった。街で声をかけられても常に優しかった。
「あっ金子さんだ。テレビ買うんだけどオススメを教えて!」
「今なら32インチですね。なぜかというと…」
在りし日を思うたび、何度でも目頭が熱くなる。
最後に会った8月上旬、少し歩くとすぐに休んでいた。8月下旬にマネジャーから連絡が入った。
「本日未明に容体が急変しました。連載はもう難しい状態です」
このとき初めて病状を聞き、ただ奇跡を祈るしかなかった。だから、9月中旬に金子氏本人から電話がきたときは驚いた。
「おかげさまで、先ごろ新書を出しました。いつもありがとうございます」
呼吸さえ苦しいはずのかすれた声で、しかし明るく律儀に挨拶してくれた。
最後まで周囲を気遣いながら、金子哲雄は逝った。流通ジャーナリストとして、極めて“コストパフォーマンス”に優れた41年だった。心より冥福を祈る。
(担当記者・内海宗治)