池田も佐藤も互いに「吉田学校」優等生ではあったが、性格は前者がガラッパチ、後者が慎重派で、必ずしも連帯感は乏しかったが、吉田茂の“ツルの一声”「池田君のあとは佐藤君が(首相を)やるのが一番いいだろう」が、池田が佐藤を後継に指名した決め手になったとの見方がある。
佐藤はその池田が情熱をかけた戦後日本の再建、高度経済成長路線のバトンタッチを受け、これを熟成させた一方、悲願とした沖縄の施政権返還を実現させ、長期政権をまっとうしたものだった。その後、「沖縄返還」も含めて平和外交への功績を評価されて政治家としては日本初、ノーベル平和賞を授賞している。
さて、二人の結婚はというと寛子が青山学院専攻科に在学中だったとき、東大を出て鉄道省に入って間もなくの佐藤から、突然、熱烈なラブレターが来たことがキッカケだった。二人の関係は“いとこ同士”だが、この手のラブレターなどはニガ手だった佐藤は、旧制五高当時の友人で、文章の達人に“原文”をつくってもらい、それを丸写しにして送ったものだった。
筆者は歴代首相夫人の中で、寛子夫人には何度もインタビューの機会を得ていたが、開けっ広げの性格からか、こんな“秘話”を明らかにしてくれたものだった。
「義兄(岸信介元首相)のほうが、断然ステキだったんですよ。色白で、旧制一高当時、郷里の山口に戻ってくると華やかな東京の話などを上手に聞かせてくれるもんだから、私を含めた親族の女の子の誰もが憧れだったんです。一方、栄作はというと、これが真っ黒な顔をして、黙って一人、山にマツタケを採りに行ったり、ウナギ釣りに行ったりといったような女の子とはまったく無縁の少年でした。運命は分からんものです(笑)。
結婚生活もとにかく無口で、まず物を言わん男。ヒドイときには、数えたら1日たった二言という日もありました。おそらく、生涯、他人様の何分の一かしかしゃべらん男だったと思いますよ。例えばニューヨークへ行く飛行機の中でも、本を読んでいてほとんど何も言わなかった。で、たまに私が『今日は(国会で)いろいろ大変でしたね』とでも言おうものなら、即『生意気言うなッ』でした。私は終生、『おまえを気に入っている』などという言葉を聞いたことはありません」
その後、佐藤は鉄道省事務次官から吉田茂に引き立てられて、議員バッジなしで吉田内閣の官房長官に就任したのを手始めに、大蔵大臣、自由党幹事長、通産大臣などを歴任、首相の座に就くことになる。しかし、一貫して口数少なく「黙々栄作」の異名があった。ために、自宅の世田谷区代沢をもじって新聞記者からは「代沢にネタなし」とも言われていた。代わりに、世間に「代沢発」のネタを提供していたのが寛子夫人だったのだ。そうしたエピソードは、大きく二つあった。
一つは、「ミニ・スカート事件」。佐藤が首相当時の昭和44年11月のニクソン米大統領との首脳会談に臨むとき、寛子は膝上3センチのミニ・スカートで同行、世間から「ミニおばさん」の声をもらったとき。
二つ目は、「ワイフ・ビーター事件」で、寛子が週刊誌で作家の遠藤周作と対談した際、「主人は怖いですよ。力も強い。ずいぶん殴られました。暴力は止めなさいと、私の同情者は進言してくれたんですけど」と口にしたからたまらない。ただちに、外電で『Oh poor Mrs Sato…(気の毒な佐藤夫人)』と世界中に流れてしまった。
この二つの“出来事”に、寛子夫人は筆者のインタビューに、テレ臭そうにこう答えてくれたものだった。
「ミニ・スカートは、当時、アメリカではミニが流行り始めていて、デザイナーの森英恵さんに相談したら『恥ずかしがることはない。アメリカでも喜ばれる』と言われたのでやむなくでした。首脳会談は、沖縄返還問題で重要なタイミング。出発の羽田空港でのタラップでは、恥ずかしくて顔から火が出ましたね。主人にも相談したんですが、例によって『オレにはそんなこと分からん。勝手にせいッ』でした。
“ワイフ・ビーター”のほうは、そのあと『私、もう首でもくくって死にたい』などと口走ってしまい、またまた外電が『日本のファースト・レディーは“放言”を苦にして首吊り自殺を決意した』と流した。主人はそのあと、『新聞に出る週刊誌の広告を見るたびにヒヤヒヤしている』とブ然としていましたね」
しかし、一方で、「夫人は佐藤以上に鋭い“政治観”があった」とは、新聞記者、周囲の一致した声だったのである。
(この項つづく)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。