「あの頃のスターはみんな華があって、石原裕次郎さんや原節子さん、山本富士子さんなんて、姿が見えなくても『今日はあの人が来てるんじゃないか』ってわかるほど、どこにいても本当に光り輝いていました」
こう話すのは映画評論家の渡部保子さん。昭和28年にあの淀川長治さんが編集部長を務めていた雑誌『映画ファン』の編集部員として入社し、以降、約60年間にわたって日本の映画界を見続けてきた映画界の“ゴッドマザー”だ。
当時はまだ女性の映画記者は珍しく、すぐ顔を覚えてもらった渡部さんは、多くのスターたちの素顔を間近で見てきたという。
「もともとお上手を言わないハッキリした性格だったから、皆さんも話しやすかったんでしょうね。たとえば、錦之助さんとはよく口喧嘩をしてましたね(笑)。田舎出身でなまりの残っていた私の言葉をからかうから、私もムキになって言い返してたんです。高級料亭の金田中を『キンタナカ』と呼んで、『バーカ、あれはカネタナカって読むんだよ』って大笑いされたこともありました」
錦之助は「あの娘が来なければ取材は受けない」と言うほどの信頼を寄せていたというが、ほかにも渡部さんを慕う俳優は数多く、仕事を超えた交流が生まれていった。母親のガードが堅くて有名だった美空ひばりからも“女史”と呼ばれ、何度も取材を許された。
「実は私たちの『映画ファン』は、最初の頃はひばりちゃんを“ゲテモノ”扱いしていたんですが、ファンの要望がたくさん寄せられるようになって一番の下っ端だった私が行くことになったんです」
渡部さんが26歳、ひばりが22歳の時、愛知県での公演を密着取材した際には思わぬ展開もあった。
「公演後に誘われて楽屋でひばりちゃん、お母さんと一緒に麻雀をしたんです。初心者の私が2000円ぐらい勝ったんですが、あれは私にお小遣いを稼がせてくれたんでしょうね。しかも、その後『今夜は一緒に泊まって!』と宿まで連れて行かれて。夕食後には2人でお風呂に入って、女学生みたいにキャアキャアお湯のかけっこをしました」