しかし、96年に訪れた1度目のブームの時、彼の面白さを見抜けた人はどれほどいたのか? 少なくとも、私自身を含めて、周りにはいなかった。
だが、遡って過去の彼の発言をリサーチしてみると、昔から彼はこんなヤツだった。
97年に受けたインタビューでは、当時の相方・森脇(現・ホストクラブ経営者)との出会いを回想している。これがデタラメ極まりない。友達がおらず一人で粘土遊びに興じる小学1年の有吉に、転校してきたばかりの森脇が「それ、いいね」と接近。「こいつはなかなか見る目があるな」と有吉も仲良くなったのだが、社交的な森脇は他の友達を作ってしまう。そんな状況に陥った有吉は、言うに事欠いて「森脇の存在、ちょっとうざったいなと思ってましたし。僕のほうには、一人で静かに粘土やりたいなって気持ちがあったんで」(『月刊カドカワ』97年5月号)と、憎まれ口が止まらない。
何しろ、高校二年生の時に初めて作ったネタが「周りの人間の悪口みたいなヘンなやつ」というから、救いようがないしブレもないのだ。
また、当時の猿岩石といったら、売りは“歌”である。しかし、それについても「ただ、できあがった曲を覚えて歌っているだけです」(『月刊カドカワ』97年8月号)と、モチベーションの低さを隠さない。別のインタビューでも「やっぱり、芸人としてやっていきたいです」(『日経エンタテインメント!』97年7月号)と語っているのだが、今後は何をやっていきたい? という質問には「歌ですね」と、インタビュアーをナメてかかるふてぶてしさ。
実際、連日の取材攻めに遭っていた当時の状況についての質問でもこうだ。「聞かれることは旅の話ばかりで、嫌気がさしませんか?」という問いに、「アドリブがきかないんで、同じことを聞かれるのが一番助かるんです」(『Bart』97年1月1日号)と、ブレイク1年足らずですでに達観していると捉えるのは、肩入れのしすぎだろうか。
そして10数年前の時点で、現在の“悪口芸”に通じるスキルも会得済み。当時、大ブームだったミスター・ビーンについて「笑いの質としては新しいものじゃないですね」、「古典は古典って見てます」(『スコラ』98年3月12日号)とバッサリ。怖いもの知らずというか唯我独尊というか。芸は何一つ評価されてなかった当時の若手がである。
自身のブレイクの要因となったヒッチハイクについても、大上段に構えない。ある大学の講演に呼ばれたというのに、夢いっぱいの若者に向かって「ヒッチハイクのコツは同情を引くこと」(『FLASH』97年1月7日号)と豪語する、当時の有吉。
実は、有吉は昔から“有吉”だった。
(寺西ジャジューカ 山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou