田中による2人の評価は、こうであった。
「橋本。人望はいささか欠けるが、能力は同世代ではピカ一。スパッと切れるカミソリの魅力がある」
「小沢。若いのにオレがオレが、がない。黙々と人のために汗をかいている。これがいい。こちらはドスンと切り落とすナタの魅力だ」
田中は5歳で病死した長男と姿がダブるようで小沢を常に傍らに置き、自らの振る舞いを見せることで「帝王学」を教えたが、一方の橋本には将来を期して若いときからポストを与え、伸び伸びと仕事をさせたのだった。
その橋本龍太郎は「硬骨にして清廉な政治家」として鳴り、「吉田(茂)十三奉行」の一人として厚生、文部大臣などを歴任した橋本龍伍の長男として生まれた。しかし、龍太郎が生まれてわずか6カ月で生母が亡くなり、龍太郎が6歳になって龍伍が再婚するまで、龍太郎は“母に抱かれた”記憶がなかった。
龍太郎にとっての継母となる後妻は、正といった。その正にも、子供ができた。その子が龍太郎とは10歳違い、NHK記者からのちの高知県知事になり、いまはテレビキャスターとして活躍している橋本大二郎である。正は自分のおなかを痛めた大二郎ともども、龍太郎も大変に可愛がった。龍太郎は生母に代わり、この正に“抱かれて”育ったのである。
正はやがて脳溢血で倒れ、平成10年(1998年)暮れに亡くなったが、橋本は倒れて以後の約10年間、この病床の母を見舞い続けたのだった。この間、厚生、運輸の両大臣、自民党幹事長時代はもとより、超多忙の首相の座にあっても寸暇を惜しむように病院へ通っていたものであった。
橋本には、一方で「変わり者」「挑戦的」「怜悧」「傲慢」との声もあったが、「女性に優しい「涙もろい」といった一面は、こうした生い立ちの中で育まれたと言ってもよかったのだった。
橋本と久美子の結婚は昭和41年(1966年)、橋本が慶應義塾大学法学部を卒業、一時、「呉羽紡」(現在の「東洋紡」)という紡績会社に勤めたあと、すでに亡くなっていた父親の地盤を継いで旧〈岡山2区〉から総選挙に出馬、初当選を飾って3年目だった。
久美子は聖心女子大学英文科を卒業して2年目、橋本とはもともと遠縁にあたり、子供の頃から「龍ちゃん」と呼んでいた間柄だった。橋本のどこにホレての結婚だったのか。久美子は、こう語っている。
「私は政治家の妻はイヤだったので、あくまで結婚は断れるという気持ちで親戚のすすめで一度だけデートをしてみたんです。すると、物の考え方がフェアで、政治家としてのポリシーも持っている。結局、外見が素敵でしたが、それを超えて人間としての共感をおぼえたからでした」
久美子による「外見が素敵」は、筆者もナットクできるところがあった。筆者は学生時代、国会記者会館内にある共同通信社の政治部分室で原稿運びのアルバイトを2年ほどやっていた。国会の予算委員会などに出向き、記者が書いた原稿を急いで記者会館に持ち帰るのが仕事だった。当時は、パソコンもインターネットもなく、記者の書いたカーボン用紙をはさんだ4、5枚の手書き原稿をデスクがチェック、それをオートバイで本社の関係部署に流すシステムだった。
その予算委員会で、代議士1年生だった橋本を見て驚いたのである。当時の自民党議員の風貌は、大方“玄武岩のカラダに金剛石を乗っけたようなカオ”(?)のゴツイ方々が多かったが、委員会席の橋本のみまるでハキダメにツルのような美丈夫ぶりを発揮していたのである。いみじくも久美子が「外見が素敵」と言ったのは、ナルホド納得できたということである。
橋本の「美男」ぶりについて、筆者は松野頼三・元防衛庁長官(松野頼久・前代議士の父)からこんな秘話を聞いたことがある。
「実は、橋本はすんでのところで映画俳優になるところだったんだ。慶応の学生のとき、東宝が親父の龍伍のところに来てね、口説いたんだ。『うちでは第1期のニューフェースを募ることになった。龍太郎クンを出してみないか』と。結局、龍伍は跡継ぎも考えて反対、橋本自身も俳優には興味がなかったことで実現しなかった。このとき、一緒にスカウトされたのが、上原謙(往年のスター)の息子の加山雄三だった。とにかく、学生の中では目立っていい男だったらしい。プロが認めた顔だから、こりゃ本物ということだよ」
さあ、大変である。久美子は選挙時も含めた橋本の「女性人気」のあまりの凄まじさにビックリ、以後も長く飛び交った橋本のいくつかの「女性問題」に頭を抱えることになるのだった。
=敬称略=
(次号につづく)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。