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愛知県西三河地方の伝説 「桜の木が植られた城(桜城)」

 愛知県豊田市元城町にあった桜(佐久良)城の元となったものは、慶長19(1614) 年、三宅康貞という武将が武蔵国瓶尻から挙母に転封された時、元城町一帯に築いた陣屋がその始まりであった。その陣屋の内外に多数の桜の木を植えられたため、佐久良城と呼ばれたという。三宅氏が寛文4(1664)年に渥美半島の田原に転封された後、挙母は幕府の直轄地となった。その時代、名代官といわれた鳥山牛助精元が曲尺手堤を築き、さらに城跡に倉庫7棟を建設した。

 天和元(1681)年、磐城国白河城から本多忠利がこの地に転封され、桜城跡に新しい陣屋を築いた。本多氏は以後3代にわたり、挙母の藩主として統治した。寛永2(1749)年、本多兵庫筆頭忠央が遠江国相良へ転封され、その代わりに上野国安中城主・内藤政苗が挙母の藩主となった。

 内藤政苗は寛永2(1749)年5月23日に安中を発ち、中仙道を経由して、6月3日に挙母に到着したが、12月には築城の設計図の作成した。実際に築城工事は宝暦6(1756) 年2月に始まった。挙母藩の財政は窮迫のため幕府より4千両を借用した。しかし、桜城(挙母城)は完成半ばにして、矢作川の氾濫を避けるため、童子山(小阪本町)に第2の挙母城である七州城の築城をするに至った。桜城がどの程度まで作られていたかは不明であるが、天明2(1782)年に七州城は完成した。『七州城沿革小史』によれば、本丸、二の丸、天守閣は築かれた。33年間も藩主2代が居城したと記されている。

 桜城時代の街筋は中町通り、西町通りなどはいずれもカギの手に曲がった城下町特有の町割りは現在でも残っている。また桜城隅櫓跡は昭和47(1972)年2月24日に豊田市指定・登録文化財となった。

(写真:「桜城北隅櫓台」愛知県豊田市元城町1丁目)

(「三州の河の住人」皆月 斜 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

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