しかし、女ギライは当たっておらず、それは三枝と結婚した当時のモテモテの京都・下京税務署長時代の“夜の部”や、その後、幹事長や大臣ポストを踏む中でも明らかである。
こんな伝説的な話が残っている。旧福田派担当記者の証言である。
「大蔵省きってのエリート官僚で、20代で税務署長ですから、それはモテます。祇園によく出入りしていた。座敷では京都府知事とともに床の間を背にしているのだから、舞妓、芸妓が放っておくわけがなかった。
一方、エラくなってからの新橋、赤坂といった花街でも、芸者が“福田落とし”にチャレンジしたという話があった。ある粋な財界人が座敷に芸者衆を集め、『賞金を出すからどうだ』と言い出した。名乗りを挙げた芸者もいたが、福田の“石部金吉”ぶりに打ち勝ち、賞金を手にした芸者は一人もいなかったそうだ。福田は女ギライではないが、相当のカタブツであったことが窺われる」
こうした福田の“体質”は、一貫してその政治姿勢にも表われていた。
福田という政治家はケレン味なく、常に「覇道」を求めず「王道」志向であった。俗に言えば、根がマジメなのである。政争でも権謀術策を弄することを嫌い、ために勝利を逸することも多々あった。昭和47年(1972年)の田中角栄と争った「角福総裁選」でも、田中のシ烈な多数派工作を尻目にそれをよしとせず、結局、田中の後塵を拝して敗北したのもいい例であった。そうした「王道」志向の政界の福田ファンも、また多かったのである。
その福田は、エリート揃いの大蔵省の中でも、まれに見る頭脳明晰の持ち主だった。
群馬県の旧制高崎中学時代にしてからが、卒業時の全科目平均が98.7点と同校開闢以来の秀才で、とりわけ数学に秀で、教師が教える解き方ではガマンできず、“福田流”で解いて見せ、教師を唸らせたこともある。
また、旧制一高、東京帝国大学法学部でも4番を下回ったこと一度としてなく、大蔵省入省は1番だったのだ。
ちなみに、この大蔵省入省の試験は、旧制一高、東京帝大で同級生だったのちに衆院議長を務めた池田勇人元首相の側近中の側近、前尾繁三郎と一緒に受けたのだが、万事に茫洋としていた前尾と異なり、福田はいかにもの秀才ぶりを見せつけたものだった。
これには、前出の旧福田派担当記者の証言が以下のように続く。
「福田は、その頃から“情報収集”にもたけていたようだった。試験前に大蔵省の先輩を訪れては、出題の傾向と対策を練っていた。例えば、口頭試問では『大蔵省にある局の名前をすべて言ってみよ』というのは確実に出るということで、自前にチェックしていた。試問前の控え室で、福田は『これは出るぞ』と前尾に耳打ちしてやったのだが、前尾はいざ試験が始まると福田の親切もろくすっぽ覚えていず、すべての局名を挙げることができず、からくも合格したというものだった。福田はすべて正解のトップ入省だったのです」
その福田は三枝という最愛の女と巡り合い、子宝にも恵まれ、それを格好のバネにするように大蔵省官僚として出世街道を突っ走っていった。
京都・下京税務署長のあと、神奈川・横浜税務署長、本省の主計官、官房秘書課長、官房長、次官が確実な主計局長といった具合に、まさにエリート中のエリートの歩みであった。
しかし、好事魔多しである。主計局長の福田は、人生で初めての窮地に立たされることになる。「昭電疑獄」に連座した形となったのだった。
「昭電疑獄」とは、昭和23年、時の昭和電工社長・日野原節三が復興金融公庫から年間20億円もの融資を引き出すため、政財官に数千万円をバラまいたという事件である。東京帝大で福田の2年先輩にあたる日野原が福田家を何度か訪れていたことで、福田に疑惑の目が向けられたのである。
結果、収賄罪に問われた福田は大蔵省から休職を命じられ、やがての昭和33年の高裁判決で無罪となるまでの約10年間、苦衷の中で過ごすことになったのだった。後年、福田は「アレで自分は社会的に死んだと思った」と述懐したものである。
これはまた、福田夫妻の物の考え方を大きく変える転機にもなった。妻の三枝は、しばしマスコミから姿を消した。また、福田自身は、一番信用できるのは身内だけと、それまでのどちらかと言えば物事に慎重な一方で開けっ広げな性格、人との対応が、一転、内にこもる形になったのである。初の夫妻の危機でもあった。
どう乗り切ったのか。
=敬称略=(この項つづく)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。