幹事長3期目の総選挙で自民党を300議席の大台に乗せて大勝させた田中角栄は、翌昭和45年1月の第3次佐藤(栄作)内閣発足に伴う党役員人事で幹事長4期目、その年の暮れには田中の多数派工作により10月に自民党総裁「4選」を果たした佐藤首相は田中を実に5期目の幹事長として留任させたのであった。異例の長さと言ってよかった。それだけ、佐藤首相の政権運営に対する田中への信頼感が知れたということでもあった。
そうしたエネルギーのほとばしる“大幹事長”のもとには、いやでも人が集まり、猟官運動、無理スジの相談事も多々寄せられた。人気は最高調。さすがの田中も、「なんで年がら年中、オレのところばかり人がこんなに来るんだ」とボヤいたこともあったのだった。
一部に「刎頸の友」とされ、『国際興業』創業者にして社長の小佐野賢治が砂防会館の田中事務所によく顔を見せるようになったのもこのころである。田中と小佐野との関係を知る政治部記者のこんな証言が残っている。
「両者の出会いは昭和22年、田中が衆院議員として初当選を飾って間もなくだった。当時、田中の『田中土建』と小佐野の会社の顧問弁護士を共にやり、広島高検検事長を最後に公職追放されていた“人権派弁護士”としても知られた正木亮が、初めて二人を引き合わせた。正木は、『あなたたちは、共に苦労してここまで成功した。田中さんは政治家として、小佐野さんは事業家として大を成してもらいたい』と握手させたのが始まりだった。
その後、たまに二人で一杯やったりしていたが、一気に関係が狭まったのは田中が“日の出の勢いの幹事長”になったころから。小佐野は田中に多少の政治献金はしていたが、世間で言われたように無尽蔵な献金などはなかったともっぱらだった。大体、事業家としてシビアな小佐野は、無駄ガネを使う男ではなかった。田中は後にこう言っていた。『小佐野クンはケチだよ。オレが総裁選に出たときだって、そんなにべらぼうに助けてはくれなかった』と」
ちなみに、小佐野の料亭での遊び方のエピソードに、こんなものがある。座敷での芸者へのチップは100万円ほど入っている財布を、まずはポンと渡す。勝手に取れ、というのである。芸者が何枚か抜いて、小佐野に返す。後で小佐野は何枚抜いたかを数えるのである。抜いた枚数に見合わぬサービスぶりだった芸者は、二度と座敷に呼ぶことはなかったのだった。なるほど、事業家としてシビアな一面を持っていた小佐野、さらには田中との“カネの関係”もしのばれるというものである。
一方、相談事では創価学会出版妨害事件があった。公明党が藤原弘達という政治評論家の『創価学会を斬る』という本の出版に当たり、出版中止の“圧力”をかけたというもので、大きな話題となったものだ。当時の創価学会・池田大作会長に対する、国会証人喚問の要求まで出たのである。
藤原と公明党両者の間はこじれにこじれ、公明党はついに田中幹事長に仲裁を頼んだのである。田中は度々、藤原に接触、汗をかいたが、藤原が「(公明党が依頼した)田中幹事長から圧力があった」と語ったことなどで、公明党はさらに窮地に陥った。「なんとかならないか」、なおも泣きつく公明党幹部に田中は言ったのだった。「しゃあないな。それならオレが勝手におせっかいを焼いたことにしておけばいい」と。
結局、この事件は「田中がおせっかいを焼いた」ということでウヤムヤになったが、助かったのは公明党と創価学会だった。後に、池田大作会長が公明党幹部にこう言ったとされている。「田中さんへの恩義を忘れてはいけない。いつか総理にしてやりたいな。面白い政治をやるかも知れない」
情けは人の為ならず――。人の失敗を背負ってやるという田中の男気、度量を示すエピソードでもある。
その後、長く田中と公明党の“蜜月”状態が続いた。田中がやがて首相になり、一気に日中国交正常化を果たしたとき、この“先兵”として中国に渡り根回しに動いたのが、当時の公明党委員長の竹入義勝だったのである。池田会長の「恩義を忘れてはいけない」を、全うしたということでもあった。
そうした中で田中は、佐藤首相の政権運営に汗をかく一方で、4期、5期の幹事長時、自らの悲願でもあった都市と地方の格差是正、国土の均衡化に腐心、全国新幹線鉄道整備法、高速道整備のための自動車重量税(俗に言う「頓税」)などを次々に成立、公布させていった。
こうした田中のあまりの政策推進への“ばく進”ぶりに、さしもの佐藤首相も眉をひそめることもあった。しかし、田中は一歩も引かず、ひるむことなく激論辞さずで佐藤首相と向かい合ったのだった。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。