昭和32年7月10日午後7時半。モーニングに威儀を正した田中角栄は首相官邸に入った。第1次岸(信介)改造内閣で大臣就任への呼び込みである。郵政大臣を拝命、首相執務室から出てきた田中の顔は紅潮、記者団にもみくちゃにされ、口を突いて出たのが冒頭の弁である。田中にとってのこの初入閣は、「雌伏の時代」から本格的に抜け出し、実力者へ向けての階段にその第一歩を掛けた瞬間でもあったのだった。
その夜の東京・文京区豊川町(現在の目白台)の田中邸玄関には「祝大臣就任」と書かれた四斗樽3個が並べられ、家の中は祝い客でごった返した。
当時67歳だった田中の実母・フメは、「(新潟で)農家の仕事を一段落させてやってきたが、もうただただ嬉しいだけです」と上気した表情で言い、一人娘の日本女子大付属中学2年生だった真紀子は、「嬉しい。お父さんに『おめでとうございます』と言ったんです。『よし、よしッ』だってさ」と、こちらは無邪気に喜びを表していた。また、引っ込み思案で知られていた妻・はなは折から風邪で床に就いていたが、大臣就任の“ショック”で下がりかけていた熱がまた上がってしまったものだった。
一方、かつては「オラとこのバカが選挙に立つと言っておる」と息子の総選挙出馬に対し周囲にグチをこぼしていた父・角次は、新潟県刈羽郡の自宅で祝い客に囲まれていた。「オラはなァ、アニ(長男・角栄をこう呼んでいた)はきかねェ性格だから50歳くれェになったら大臣にはなるだろうと思っておったが、予想より10年早く大臣になりおって」と、これまた嬉しさを押さえ切れぬ表情だった。
また、メディアは期待半分、不安半分の評が多かったが、例えば就任翌日の朝日新聞朝刊は「馬力あり」として、次のような「横顔」を記したものだった。
「口ひげを生やしているせいか年齢の割に老けて見え、口の利き方もませている。しかも土建業でたたき上げてきた経歴にふさわしいかのように馬力があり、アクも強い。競馬に賭けても大勝負を試みるなど、“小型河野(注・河野一郎元副総理。河野洋平元衆院議長・元自民党総裁の父)”という評があるゆえんだ。ともあれ、30歳前後の若さで土建会社を起こしたり私鉄の社長に納まったりした来歴が示すように、なかなかの腕利きである。
政界に入ってからも、“あの若さで”と意外の感を与えるほどの手腕を見せたことがある。第二十二回特別国会で衆院商工委員長だった当時、難航を予想された石炭合理化法案の審議を政府の希望した日程の通りに進めて、社会党に反撃の機会を失わせてしまったあたり、通産省では近来にない名委員長と評している。しかも別の法案では、時に雲隠れ戦術を用いて都合の悪い議決を引き延ばしたりする駆け引きの才も見せた」
一方、こうした田中の入閣の裏で、“永田町スズメ”からこんなハナシが飛び交っていたのだった。
「田中は改造前に岸首相に現金300万円ナリをリュックに詰めて運んだそうだ」「いや、田中は岸の実弟の佐藤栄作(注・後に首相)の強い後押しを得たことで、改造後に300万円を“お礼”として岸のもとに届けたと聞く」などで、「300万円」という具体的な数字が一人歩きを始めていた。
「真相」はどうだったのか。こうしたハナシを耳にした当時の田中の後援組織「越山会」の幹部からは、「まァ、先生ならそのくれェのデカイことはやっておかしくない」という声があった一方、すでに田中との関係が始まっていた後の「越山会の女王」佐藤昭子のこんな“証言”もあった。
「(初の入閣から約5カ月後の翌年)年明け早々、議員会館で久しぶりに田中に会った。田中にあらためて大臣就任のお祝いを言うと、冗談交じりに笑いながら言っていた。『第一回目は運動するもんだよ』と」(「新潮45」平成6年10月号より)。田中がいみじくも「運動」という言葉を使ったことで、このハナシは金額はともかく、後に相当の「運動資金」をはずんだだろうということで定着しているのである。
そうした一方で、大臣就任の翌日、田中大臣は前述の朝日新聞「横顔」を証明するように、早くも「馬力」を見せつけるのであった。
(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。