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プロフェッショナル巧の格言 第41回 山川豊 マネージャーなしで営業に行かせた“演歌界のドン”の厳しさと暖かさ(2)

 '81年、山川豊は『函館本線』で歌手デビューを果たした。
 「僕が歌っていた歌はコブシが回っていたんです。厳しいディレクターは、歌は譜面通りに歌えと。デビューする前、コブシが回るのを直すのに1年くらいかかりました」

 33年前、山川は『函館本線』のキャンペーンのために豪雪の北海道・函館駅前で所属事務所の長良じゅん会長と一緒に宣伝用のチラシを配布していた。
 「何も知らない僕は、会長も来てくれたんだなと単純に思ってました。ところが、レコード会社の人がすっ飛んできて、“お前、誰がチラシを配っていると思っているんだ、これは凄いことだぞ”と怒鳴られました。いくら事務所の会長とはいえ、デビューしたばかりの新人に、わざわざ北海道まで、しかも雪の中。『長良さんがついてくるって普通はあり得ないことなんだぞ』とも言われました」

 当時の長良会長は雪村いづみや水原弘を育てた名マネジャーとして芸能界に君臨していた。その会長がキャンペーンに同行し、豪雪の中、『函館本線/山川豊』と書かれたチラシを配ったというから、期待のほどが窺える。
 「実は山川豊という芸名は、舟木一夫さん、西郷輝彦さんと並んで“御三家”と呼ばれた橋幸夫さんのマネジャーの名前だったんです。その名前を汚さないように、長良会長は山川を絶対スターにするという執念でマネジメントしたんです」(親しかった音楽プロデューサー)

 その後、長良会長と食事をする機会をセッティングされた山川は「今は辛いかもしれないが、お前の周りには大勢のスタッフがいる。その人たちへの感謝の気持ちを忘れるなよ」と諭されたという。
 「この言葉で気がついたんです。僕の睡眠時間が2、3時間だとすると、スタッフの人たちはほとんど寝てないということを。それからは“僕の体がぶっ壊れるか、ヒットするかのどっちかだ”と開き直ることができました」

 結果、『函館本線』は大ヒット。山川はその年の日本レコード大賞の新人賞を受賞した。
 「最優秀新人賞は近藤真彦さんでした。受賞式の会場では、そのマッチに声援が集中していた。それを見ていた長良会長は“1年2年で勝負したらアイドルには勝てない。10年20年後にマッチと肩を並べてればいいんだ”と励ましてくれたんです」

 しかし、NHK紅白歌合戦にも出場して、その後もヒット曲が続いたことで山川に奢りの気持ちが生まれたという。
 「レコードが売れなくなると、“なんで売れないの?”という奢りがあって、焦りましたよ。会長から“これからはマネジャーを付けない。一人で仕事に行け”と言われました。以来、スナックの営業も一人で回りました、詫びしくてね。当初は何てことするんだと思いました。でも、長良会長がマネジャーを付けなかった意味を、ボクシングをやって理解できたんです」

 山川はレコードが売れないという壁にぶち当たり、毎日が不安で眠れなくなった。体を鍛えて疲れさせれば眠れるという思いからボクシングジムの門を叩いた。
 「練習生になって、2年間くらいプロになる気はなかったんです。ところがジムの若い子たちが次々とライセンスを取るのに刺激されて、プロのC級ライセンスを取って、ボクサーとしてもデビューしました。ですが、それ以上に刺激を受けたのは100円の風呂代も払えない少年たちが必死にボクシングの練習をしている。その姿を見て、俺ってどんなに甘いのかと思いました。長良会長が僕にマネジャーを付けなくなったのは、この甘さに気づかせるためだったんだと思いました」

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