プラチナなどの貴金属のほかに、行方不明になったままの北京原人の化石骨があるという。
昭和62年になって、これを最初に探し始めたのは、7個の軍用行李に収められた秘宝を自ら飛行機で運び、台湾での第1次埋蔵に直接関与した村岡治美元陸軍航空中尉だった。しかし、村岡氏自身は、その後実施された発掘調査には参加していないようだ。
代わって調査の主体となったのが、札幌の国際プロジェクト事業団という会社が組織した『美幌町旧日本軍地下壕調査委員会』である。どのようないきさつがあったのか、村岡氏の手記にも書かれていないし、筆者にはわからないが、それからまもなく村岡氏は病死しているから、身体的な問題があったのだろう。それに、個人で取り組むにはハードルが高すぎる。
ともかくこの委員会には道内の有力者が名を連ねていて、組織としての力があったのは確かだ。昭和63年1月に提出した調査許可申請書に対して、美幌町長は1日後に、駐屯地の業務隊長は4日後に許可を出し、さらに網走支庁長と北海道知事も、約半月後に了承している。
なお、委員会の名誉のために述べておくが、この調査は物欲で行われたものでは決してない。趣意書には、進駐軍によって爆破されてしまった地下壕の全容を解明して、中にある遺物とともに公開し、歴史遺産として後世に伝えることが目的であると書かれている。また、戦争犠牲者の慰霊塔や平和祈念塔を建てることも盛り込まれている。
未解決の戦後処理を民間の力でしてあげようという点は、筆者の思いと同じ。壮大な男のロマンといえるのではないだろうか。
ロマンといえば、映像企画者で作家としても活躍する高橋五郎氏も、ここに興味を持ち続けている。地下格納庫に保存されている2機の零戦を世に出したい意向のようだ。
10年ほど前、日本テレビで同氏の企画で制作された特番が放送されたことがある。このときは、地下壕の一部が確認されたものの、途中で行き止まりになり、それ以上は進めなかった。なお、これに関しては、高橋氏の著書『ゼロ戦黙示録−封印された巨大地下壕の謎』(光人社)に詳しく書かれている。
筆者が調査委員会に属していた人物と知り合ったのは、第1次発掘の後なので、当時の詳しい様子は知らない。話を聞いて、自分がやってきたトレジャーハンティングとは次元の違う世界であると感じ、たじろいだことは覚えている。
掘削は駐屯地に隣接する私有地から始めることになった。横穴を20メートルほど掘り進めば、地下の本壕へ到達するという見込みだった。工事はどうしても大掛かりになるし、地下壕内には気化した水銀が充満している危険性があり、安全対策に十分な配慮をしなければならないから、莫大な費用が掛かるのはやむを得ない。
委員会の計画書には第1次発掘に掛ける費用として1150万円が計上されている。なお、最初の計画では3800万円の予算を組んでいたが、縮小されたようだ。工事期間は約2カ月である。
費用の調達ができて、修正された計画の通りに事が進んだかどうかも、筆者は知らない。わかっているのは工事が失敗に終わっていることだけだ。
筆者の元へ報告に現れたのは、調査委員会に工事責任者として参加したM氏である。M氏はその少し前まで札幌でトンネル掘りを専門とする建設会社を経営していて、青函トンネルの工事にも携わった。その技術を買われて調査委員会に参加し、工事計画はM氏が立案した。図面などを見せてもらったところ、素人目には良くできた計画のように思えたが、どこに問題があったのか、結果的に目的の地下壕に達していない。
その後、網走のグループが独自の調査計画を立てているというウワサが、M氏を通じて筆者の耳にも入ってきた。しかし、具体化はしていないようだ。ただ、そのグループは、戦時中に美幌に勤務していた海軍将校から直接聞いた情報を基にしているというので、場所などがより明確なのかもしれない。
M氏もまた行動を開始した。どうやら資金のめどが付き、各方面への許可申請の手はずも整ったようで、間もなく20数年ぶりにプロジェクトが再開することだろう。ただし、以前の組織はすでに解散していて、埋蔵金コーディネーターとなったM氏がコアになる。
柏崎が済んだら美幌という手順で、筆者も記録係とメディア対応の役割を仰せつかって、参加することになりそうである。
(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。