田中角栄はその直前の地元・新潟での自らの後援会「越山会」の講演会で、“その日”を迎える心境をこう明かしている。
「総裁になるということは、田舎から出てきた女が、料亭の下働きから始めて女中になり、やがてそこの家の女将になるようなもんだ。大変なことなんだ」と。
第1回投票には、すでに田中との間で決選投票になった場合は田中支持に回るとの“密約”を結んでいた大平正芳、三木武夫も出馬した。結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票であった。田中と福田の差はわずか6票。田中は1位を確保したものの「ちょっと少ないな」と渋い顔を見せ、福田もまたバックにいた佐藤栄作首相による「二人は君子の争い、決選投票になった場合は1位になった者に2位が協力すべき」の言葉から、1位をのがした無念さがにじんでいた。
誰もが過半数を獲れなかったことにより、決選投票となった。福田は6票差だったことも手伝い、まだ勝利の余地はあるとして、佐藤の言葉に従わず決選投票を辞退することはなかった。決選投票は、田中が第1回投票の大平、三木両派の票を上積みする形で280票、福田は190票と大差となったのだった。
福田は佐藤の“意向”と党内影響力に期待したが、時に世界情勢は「米中接近」が進むなど大きく変化しており、一方で、党内には「日中国交回復」の必要性も声高く、「福田は佐藤の亜流で日中国交回復はムリ」との見方も少なくなかったことも響いた。また、佐藤内閣のこの期の支持率は、史上最低となる16%まで落ちていたこともあり、党内影響力は極めて限定的になっていたことも福田には痛手だったのだった。
さて、自民党総裁に決まり、首班指名で首相の座に座ることになった田中の人気は爆発だった。それまで官僚出身の首相が続いた反発も手伝ってか、学歴も尋常高等小学校卒業の叩き上げだったことから、「今太閤」「庶民宰相」の声の中で、新内閣の支持率は史上最高の68%に達した。しかし、田中自身は浮かれることなく、こう身を引き締めた。
「一兵卒として前線に赴く気持ちだ。銃口の前に立つ覚悟だ」
国家経営、国民の生命と財産に全責任を負うという緊張感が知れた。
一方の福田は、負けてなお恬淡、“敗戦の弁”をこう語ったものであった。
「(第1回投票で)170人は大丈夫だと思っていたが、150になったのはビックリした。人の心は分からんものだ。敗因は、ワシが佐藤体制を代表しておるということでどうも新味が出て来ない、そんな印象はあったかと思う」(『文藝春秋』昭和47年9月号=要約=)
佐藤栄作という親分にさからっての命懸けの下克上に及んだ田中と、ある種の“禅譲”意識に甘えた福田との間には、戦闘開始の時点ですでに勝敗は見えていたということでもあった。
★2閣僚兼務の異例の船出
そのうえで、田中は新内閣の閣僚、党幹部人事はもとより田中派で多くを固める中、主要閣僚に三木武夫副総理、大平正芳外相、中曽根康弘通産相を登用し、強力布陣を敷いた。まさに、キャッチフレーズの「決断と実行」に挑む意気込みを示したのである。
組閣にあたっては、こんなエピソードを残している。福田個人に対して、田中は「怨念はない」総裁選であったことはこれまでに記した。だが、食うか食われるかの死闘を演じた結果ではあるものの、田中は福田派から二人の閣僚を起用した。有田喜一経済企画庁長官、三池信郵政相である。
ところが、この二人に、二階堂進官房長官が内定の知らせをすることなく一方的に記者団に発表してしまったことから、ドタバタのスタートとなったのだった。いきなりの発表で心証を害した二人は入閣拒否、結局、田中首相が経済企画庁長官と郵政相ポストを兼務するという異例のそれとなった。当時の福田派担当記者の弁がある。
「福田は有田、三池に『入閣したらどうか』と言ったが、二人は『打診も何もなく、田中は調子づいている』と聞かなかった。田中は福田との関係をつないでおきたかったということだが、意が通じなかったようだった」
かくて、田中時代の幕開けである。列島の過疎・過密、格差是正を目指してまず「工業再配置促進法」を制定、「日本列島改造論」の実施へ向けてスタートを切ると同時に、「日中国交回復」に向けて一気に歩を進めた。まさに、「コンピューター付きブルドーザー」を自認した田中ならではの“猛進”であった。
しかし、舞台の暗転は意外と早かった。
(文中敬称略/この項つづく)
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小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。