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1948年にNWAが創設されてから、有色人種で初めて世界王座を奪取したのは、’74年にジャック・ブリスコを破ったジャイアント馬場である。
しかしながら、馬場のケースは日本のみでの王座戴冠という、いわゆる“レンタル王座”であり、基本的にはアメリカもしくはカナダ出身の白人王者が、その座を占めてきた。
例外としては馬場のほかに、ニュージーランド出身のパット・オコーナーと、日本人の母親を持つリッキー・スティムボートがいるものの、前者はアメリカでプロデビューした白人であり、後者はアメリカ生まれのアメリカ育ちである。
黒人として初の同世界王者となったのは、’92年のロン・シモンズだが、このときのNWA王座は、事実上、日本に権利譲渡されていたような状況にあり(藤波辰爾や蝶野正洋、グレート・ムタらが戴冠している)、シモンズが獲得したのは、そこから分裂したアメリカ版王座とでもいうべきWCWの方だった。
正統のNWA王座を黒人レスラーが獲得したとなると、’02年のロン・キリングスまで待たなければならない。もっともその頃のNWA王座は、とても世界の頂点とは言えないようなローカル王座であった。
「キリングスは王座獲得の前に、『俺はこれまで人種差別のために活躍できなかった』とアピールしましたが、これはあながち間違ってはいない。アメリカのプロレス史を見渡しても、黒人系レスラーが長くトップの王座に君臨した例は、90年代後半からWWEで活躍したザ・ロックぐらいしか見当たらないのですから」(プロレスライター)
そもそも50年代より以前は、黒人レスラー自体がプロレス界に受け入れられない状況にあった。白人レスラーたちが黒人と肌を合わせることを嫌ったことが大きな理由であり、現在の感覚からするとひどい話だが、当時、そうした差別はごく普通に存在していた。
「プロレスに限ったことではなく、例えば、アメリカにおいて黒人スイマーが少ないのは、もともと白人が黒人と同じプールに浸かるのを嫌がって、これを除外してきた歴史と無縁ではありません。プロ野球でも’48年まで、黒人は“ニグロリーグ”として別枠の扱いだったのです」(同)
★馬場と大木からインター奪取!
こうした状況に変化が訪れるのは、50年代半ばに公民権運動が盛んになってからであり、プロレスの世界において黒人初の世界王者といわれるベアキャット・ライトが、WWA世界王座に就いたのは’63年8月23日である。キング牧師が人種差別撤廃を求めるワシントン大行進において、かの有名な「アイ・ハブ・ア・ドリーム!」の演説を行う5日前のことだった。
そのライトとタッグを組むなど、同時期に活躍した黒人レスラーがボボ・ブラジルで、同じくWWA世界王座を獲得して黒人2人目の世界王者となっている。
強靭な筋肉に覆われた巨躯と、ジャンピング頭突き“ココバット”を武器とした明解なパワーファイトで人気を博したブラジルは、実は幻のNWA世界王者でもあった。
’62年、オハイオ州での選手権試合において、ブラジルは王者バディ・ロジャースをココバットの連打からリング下へ投げ落とし、カウントアウト勝ち。州のルールでリングアウトでもタイトル移動となっていたため、いったんはベルトを手にしている。
しかし、その後にロジャース側から、「オーバー・ザ・トップロープの反則があった」とコミッショナーへの訴えがあり、これが認められたため、王座を剥奪されてしまったのだ。
この幻の王座移動については、「ブラジルの人気にあやかった一種のレンタル王座だった」とする説がある一方で、「他地区のプロモーターたちが黒人王者を認めなかったため」との声もある。
今となっては事の真相を知る由もないが、日本からはうかがい知れないほどに、アメリカにおける人種差別が複雑であったことに違いはあるまい。
一方で黒人への差別意識が薄く、純粋に強さの象徴として畏怖する傾向にあった日本においても、ブラジルの活躍は目覚ましい。’57年の初来日からココバットで力道山を苦しめると、馬場や大木金太郎という時々のエースを破り、至宝であるインターナショナル王座を奪取している。
馬場はブラジルへのリベンジのため、32文ロケット砲の3連発という、自身のキャリアの中でも異例の大技を繰り出している。そのことからもブラジルの実力や存在感が、いかに突出していたかがうかがえよう。
ボボ・ブラジル
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PROFILE●1924年7月10日〜1998年1月20日、アメリカ合衆国ミシガン州出身。
身長195㎝、体重127㎏。得意技/ココバット、ドロップキック。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)