「映画製作現場で弁当運びのバイトをしたんですよ。その時、弁当を運びながら現場を見てね、ああ、俺だったらこうやるな、とか、あそこはこうしたらいいのに、なんて考えるようになったんです。そもそも、警官がムカついたからといって、いちいち殴っていたら犯罪者になっちゃうでしょ。でも映画ならムカつく警官を何人殺そうが咎められることはない(笑)。絵が描けるわけじゃない、小説が書けるわけじゃない、何の取りえもない自分が唯一やっていけそうだったのが、映像で表現していくということだったんです」
その才能は瞬く間に開花し、『ピンク映画の黒澤明』と異名を取るほどヒット作を連発するまでになった。まさに監督業は天職だったのだ。
「でも現在、映画を取り巻く世界は厳しいですよ。今はハンディカメラを利用するなど、若い人が映画を撮ることは簡単にできるんです。でも、それを上映する映画館がない。そのくせ、くだらない映画ばかり大手の劇場でロードショー公開される。そもそも文化庁がクソ映画に助成金なんか出すからいけないんですよ。それこそ税金のムダです。お役人のバカどものやることはその程度。そんな金があるなら単館映画館に金を配れと言いたい。
役人の顔色をうかがって助成金をもらいたい映画関係者、何のポリシーもなく、ただオファーを待つだけの映画監督。そんな彼らよりも、映画に情熱をかけている若者が育つ環境を整えないとね。最近の若い人たちは最初から、私がやってきたような独立系の自主映画製作を目指してる人も多いですよ」
怒りを映画製作にぶつける、そんなポリシーを持つ若松監督が今、一番怒っている出来事とは一体何なのか。そのあたりに、もしかしたら次回作のヒントが隠されているかもしれない。
「もうこれは言うまでもなく東電です。私は東北出身だから特に思うところもありますね。何より金というシャブで市民をズブズブにして、問題が起きたら知らんふり。誰も責任を一切取らない。東電の社長以下重役は、みんな現地に住めばいいんですよ。
原発が安全だと言うのなら、どうしてはじめから東京湾に設置しなかったのか? もう、考えたら答えはすぐに出るでしょ。まぁ、この問題はいつか、きちんとした形にしたいと考えています」
「映画監督なんて子供がオモチャを欲しがるのと一緒ですよ。1本撮影が終わったら、またすぐ次が撮りたくなる」そう笑いながら語る若松孝二監督。通常1年に1本撮影すればかなりのペースという映画業界にあって、齢76歳にしながら、本年度だけでも3本の劇場公開が決定している。その瞳の奥に光る“反権力魂”は、まだまだ衰えることはないだろう。
若松孝二(わかまつこうじ) 19361936年宮城県生まれ。映画監督、映画プロデューサー。'63、'63年、デビュー作であるピンク映画『甘い罠』が、当時の若者から圧倒的支持を得る。'65'65年、「若松プロダクション」設立。大手の配給に頼らない独立系自主製作映画の道へ。『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』('07年)、寺島しのぶ主演『キャタピラー』('10年)など近年、ヒット作を連発している。