「潔く腹を切れなかったのか、この臆病者」
「身のほど知らずの馬鹿者」
と、戦勝に沸く諸将が口々に罵倒する。
それだけでは終わらない。さらに罪人用の籠に入れられて、大坂や京の町で見世物にされた。死の直前まで屈辱を味わわせた後、同じく主犯格と目された小西行長や安国寺恵瓊(えけい)とともに、京の六条河原で斬首刑となった。徳川家康は三成を庶民の罪人と同様に扱い、武士の尊厳を奪い尽くして殺したのだ。
家康の戦後処置は苛酷である。処刑された者はこの3人だけだが、運命を悟り自ら腹を切った者、切腹させられた者など、大名クラスだけでも20名以上が命を断たれている。また、生き残った者たちの中には、死ぬより辛い“生き地獄”を味わわされた者たちがいる。例えば、宇喜多秀家。敗戦後に逃亡して薩摩などに潜伏していたが、幕府は執拗にその行方を追った。生きた心地のしない秀家の逃亡生活は6年も続いたが、ついに逃げきれず捕縛される。家康の下した沙汰は八丈島への遠島。死罪は免れた。が、いっそ殺してもらったほうが楽だったかもしれない。備前、備中、美作の3カ国を支配した大々名が、絶海の孤島で暮らすのだ。流人が島で自活するのは難しく、苛酷な極貧生活で数年もたずに衰弱死する者も多い。幸い秀家の場合は、正室だった豪姫の実家である加賀前田家が、密かに食糧などを送っていたから、40年以上生きて天寿は全うできた。しかし、たびたび「赦免がある」という情報にヌカ喜びさせられ、誤報と知って落胆することが続いた。あるいはそれも、秀家を苦しめるためにわざと流布させた偽情報だったのかもしれない。粘着質で底意地悪い家康なだけに、それぐらいやりかねない。何年が過ぎようが、自分に逆らった者を許す気はなかった。