「生意気なヤツだな」
次第に信虎は信玄を疎ましく思うようになり、これを廃嫡して弟の信繁に家督を譲ろうと画策した。信繁は信玄とは違って、自己主張を控えて素直に父に従う。隠居後も家中で力を誇示したい信虎にとっては、都合のよい跡継ぎと見えたのだろう。信虎は密かに廃嫡を画策するが、信玄に察知されて先手を打たれた。天文10年(1541年)、信虎が駿河の今川義元を訪問すると、留守中に信玄がクーデターを決行。信虎は帰国を拒絶され追放処分となった。
信繁は父と兄が繰り広げる骨肉の争いをただ傍観していた。信繁も信玄に負けず劣らず聡明との評価も高く、温厚な人柄で家臣に慕われている。もしも、信繁が動けばこれに従う家臣も多くいたはず。信玄のクーデターを成功させてしまっては、自分が武田家当主となるチャンスは潰える。それどころか、処刑される危険性もあった。後々まで禍根を残さないために、権力争いをした身内を粛清するのは乱世でよくあること。しかし、
「許せ、仕方のないことだった」
信玄は、父を追放したことを信繁に詫びた。そして、信繁に自分を補佐する副将格の立場を与えて、武田軍団の中核に据える。一時は後継を争うライバル関係とはなったが、信玄はそれをすべて水に流し、信繁を信頼して厚遇した。
よくある骨肉の争いは、母の違う異母兄弟が殺し合うのが定番のパターン。しかし、信玄と信繁は、ともに大井の方を母とする同腹の兄弟だった。母と一緒に幼い頃から同じ屋根の下で暮らした兄弟には、血の通った信頼関係があったのだろうか…いや、信玄はそんなに甘くはない。
桶狭間合戦で今川義元が戦死すると、信玄は同盟を一方的に破棄して駿河へ侵攻した。
義元の娘を妻にめとっていた嫡男の義信は、同盟の信義に反すると反発したのだが、信玄に謀反の嫌疑をかけられ、切腹に追い込まれてしまう。たとえ我が子であっても、自分に逆らう者は躊躇せずに殺す。情に流されない冷酷さも、戦国武将には必要な資質である。
人としては問題あるが、これも信玄が名将と呼ばれたゆえんだろう。