ただ、これまでの経緯は必ずしも順調とは言えない。何よりも、スタートのタイミングが最悪だった。地盤が軟弱で地下水の量が多いこの土地では、発掘のベストシーズンは地下水の水位が低い冬場である。現当主の横田学氏(67歳)は昨年の1月に開始して3月までに終了する計画を立てていたが、何だかんだで遅れ、結局掘り始めたのは梅雨が明けて間もない8月の上旬になってしまった。
ところで、この一件を初めて知る読者もいると思うので、探しているものがどういういわれのお宝で、なぜそこに埋蔵されているのか、手短に説明しておこう。
横田家の遠祖は藤原鎌足である。と書けば、10人中8、9人は首をかしげるだろう。筆者も、亡くなった先代の横田菊次氏が発掘の相談に訪ねてこられたとき、家系図を見せられて「虚飾ではないか」と思ったほどだ。
しかし、平安中期の東国の豪族である藤原秀郷の血を引く家系であるのは疑いようがないし、秀郷が鎌足を祖とする藤原北家の出であることを考えると、そのつながりは否定できない。ただ、財宝が本当にあるかどうかは系譜とは別の問題で、むしろそちらの話の方が信ぴょう性が感じられる。
霊廟に隣接する伊奈利神社の由来書によれば、同家が会津からこの地に移ってきたのは寛永11年(1634年)のこと。以来医業に就き、特に眼病の専門家として広く知られた存在だったようだ。由来書に「榎戸の殿様」と書かれているのは、たとえ医師であっても、由緒正しい武家の出であることを地元の人々も誇りに思っていたことの表れだろう。
さて、ここからは筆者の推論になるが、霊廟の地下に眠っているのは、同家が榎戸に土着した後の初代から三代目くらいまでの人物が、徳川将軍家の誰かの眼病を治し、その褒美として受け取った大判ではないかと思う。
先代の菊次氏から聞いた話だが、かつて横田家では一族が正月に集まった際に、数枚の光り輝く大判のお披露目があり、それが全て慶長大判だったという。菊次氏は祖父の菊三郎さんの寵愛を受け、幼いときに祖父の膝の上で「同じ大判がうちにはまだたくさんあって、あるところにしまってあるんだよ」と聞かされていたそうだ。先祖の遺品を手掛かりに、その場所が代々の霊廟であると突き止めたのは今から20年ほど前のこと。菊次氏は大願成就の前に他界したが、長男の学氏が跡を引き継ぐ。先祖がやっていた正月のイベント、大判のお披露目を復活させるのが夢だ。
慶長大判が発行されたのは慶長6年(1601年)から数十年間。流通貨幣ではないが、1万6千枚あまりが鋳造されたと記録にある。現存する枚数は不明で、さほど多くはないという見込みでつけられた現在の骨董価値は、平均2千4百万円。最高ランクのものは3千3百万円する。それが少なくとも100枚はあると現当主は信じている。それほどのまとまった量があるとしたら、やはり恩賞としてもらったもので、与える側は相当の権力者であり、もらった側にはその権力者に対してよほどの功績がなければならない。
話を現場に戻そう。100坪ほどもある霊廟に以前は墓石が均等に距離を置いて立ち並んでいたが、現在はそれを北側の一部にまとめ作業の利便を図っている。南側の一角に、1年半ほど前に掘った穴がそのまま残されていて、崩落を防ぐために上部は口径1.5メートルのヒューム管、その下にライナープレートという同じ口径の鉄製の枠が続いている。
昨年8月2日、作業は危険防止のため、いったん埋め戻した管の中の土砂の排出から始まった。横田氏がネット検索で探し出した井戸掘りを専門にする会社が、茨城県から遠路来てくれた。筆者も立ち会い、成り行きを見守った。たっぷりと水を含んだ粘土状の土は見るからに重たく、引き上げには機械の力を借りるが、バケツにへばりついた土を剥がすのにえらく手間が掛かる。
ヒューム管は地表から1.7メートルのものが2本と1メートルのものが1本、計4.4メートル埋め込まれていて、その先に長さ50センチのライナープレートが10個つながっている。深さ9メートル強までは井戸状になっているが、ターゲットはさらに下の12メートル強のところにある。それは一昨年の調査の際に地下レーダーがはっきり捉えている。
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。