search
とじる
トップ > トレンド > 取り壊す寸前の建物に移築、次郎長の終の棲家が平成の世に甦っていた!

取り壊す寸前の建物に移築、次郎長の終の棲家が平成の世に甦っていた!

 「船宿・末廣」は、講談や浪花節で有名な森の石松や、大政、小政など大勢の子分を抱えていた幕末の侠客・清水次郎長が晩年に経営していた宿である。明治26年6月12日、次郎長はこの船宿でその生涯を終えた。

 大正5年には、次郎長の養女が「末廣」を引き継ぐが、大正8年に売却。船宿「港屋」として新たに開業された。その「港屋」も昭和初期に個人に売られていた。その売られた民家(昭和以降は、船宿ではなくなっていた)が、次郎長が晩年に暮らした末廣であることがわかったのだ。
 平成13年には、清水区港町のエスパルス通りとさつき通りの交差点の角に、創業当時の部材を生かして「末廣」が復元された。実際に次郎長が開業した初代「末廣」の場所は、清水港近くであり、現在では「次郎長宅跡」と記された石碑が付近に建立されている。

 先述の民家が、次郎長が晩年に暮らした末廣だと判明したきっかけは、徳川慶喜が撮影した写真の中に、「末廣」を撮った一枚があったことからである。一介の侠客と将軍を結びつけたものは何だったのだろうか。
 それは山岡鉄舟という人物である。次郎長の有名なエピソードとして、幕府の軍艦「咸臨丸」が新政府軍に襲われた際に、逆賊として放置されていた遺体を手厚く葬ったというものがある。この命がけの行動をきっかけに、静岡藩の藩政補翼であった山岡鉄舟と次郎長の付き合いが始まる。
 山岡鉄舟といえば、勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の会談にも立ち会った人物であり、当然慶喜との繋がりも深い。明治時代になり、将軍職を退いた慶喜が清水に頻繁に訪れていたこともあり、交流があった可能性もあるかもしれない。

(前野クララ 山口敏太郎事務所)

参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou

関連記事


トレンド→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

トレンド→

もっと見る→

注目タグ