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丑三つ時に橋を渡る首なしの武者集団

 福井市の南を流れる足羽(あすわ)川に架かる九十九(つくも)橋は、古くから越前国の交通の要衝だった。柴田勝家が北ノ庄城に入ったとき、「半木半石」(橋の北半分を木材、南半分を石材)という珍しい工法で大改修。敵が攻め寄せてくれば、木造部分を破壊して敵勢が乱入するのを防ぐようになっていた。

 以後、この橋は越前の名物として知られるようになる。しかし、その勝家も本能寺の変後、豊臣秀吉と織田信長の後継を争って敗れ、天正11年(1583年)に北ノ庄城で自刃している。激しくもさっぱりとした気性の勝家は「親父殿」と家臣にも慕われ、北ノ庄城落城の折には妻のお市の方はもちろん、多くの家臣がこれに従って共に割腹して果てている。

 この後、徳川家康の次男・結城秀康が福井へ入封し、北ノ庄城跡地に福井城を築くのだが…この頃から、勝家らが自刃した旧暦4月24日の丑三つ時(午前2時)になると、九十九橋を南へと渡る騎馬武者の行列が現れるようになった。戦装束の武士が数百騎、しかも、その全員に首がない。勝家とその主従の亡霊だといわれている。

 そして、翌日には必ず数人の町人が急死する。それは行列を見た者、その話を誰かに聞いたり、しゃべったりした者だと噂された

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