新たな連載となる本シリーズでは、140年にわたる徳川埋蔵金発掘の歴史をひもといて検証し、その真実に迫る!
「徳川幕府の埋蔵金は上州赤城山にあり」という定説が、いつごろ広まったのかはよくわからない。おそらく、複数の人間が赤城山麓に住みつき、あちこちを掘り返すようになった明治の終わりごろからだろう。以来、大正、昭和、平成と、途切れることなく、常時誰かがどこかを掘っていたから、うわさはいつの間にかまことしやかな伝説として定着し、尾ひれがついて流布されていったのだ。
中でも、1990年から足かけ4年にわたり、TBSテレビで放送された発掘番組は、いまだに語り草になっている。特番の平均視聴率は20%以上だったというからすごい。
しかし、この伝説の知名度を全国区にした功績は大きいものの、中身はというと過去の探索の跡をなぞっただけで、何ら新しい発見はなかった。
日本の埋蔵金研究の草分けである畠山清行氏によると、事の発端は明治初年に横浜で起きた一つの“事件”だという。旧幕臣と称する男が外国人居留区に現れ、「赤城山麓に幕府の御用金400万両が埋蔵されている。自分がその発掘権を持っているが、譲ってもいい」と触れ回ったのだ。
これに食いついたのがアメリカ人。男に5万円を払い、蒸気機関で動く大型の掘削機を使って約半年間、赤城の数カ所を掘ったが、結局何も出てこなかったので男を詐欺で訴えたのだ。それは日本初の日本語の日刊新聞『横浜毎日新聞』の記事になった。明治6年のことだという。埋蔵されたのが幕末近くだとすると、10年も経たないうちに発掘が始まっているわけで、以後今日まで探索の歴史は140年にも及んでいる。
筆者がこの伝説に関心を持ったのは1970年ごろだから、すでに40年以上が経過した。当時、赤城山麓では水野家2代目の義治氏が養老院で生活を送りながらも、ときどきは津久田原の現場に現れ、次の発掘計画を口にしていたし、1キロほど北の長井小川田では元警察署長の三枝茂三郎氏が、窮乏生活に耐えながら地の底を必死に探り続けていた。
それから間もなく、高崎市に住む兵法研究家の剣持汎輝氏が埋蔵金に関連する複数の文書を手に入れ、その解読によって導き出した場所を掘り始める。そこは水野氏と三枝氏の現場のちょうど中間に位置する芳ヶ沢というところで、剣持氏が諦めたあとも東京プレハブ社長の庄司一春氏が発掘を続けた。
以後も、何人かが赤城山麓津久田周辺で探索を行っており、本シリーズの中で順次ご紹介するが、彼らが根拠としたのは横浜で起きた詐欺まがいの事件だけではない。地元にも幕末に人家のない原野で武士団が謎の行動をしていたとか、利根川をさかのぼってきた川舟から重たい荷物が陸揚げされたという目撃談が残り、痕跡らしいものも確かにある。また御用金そのものではないが、関連がありそうな出土品が何点かあるし、文書も複数残されていて、その複製も世に出回っている。
しかし、筆者が畠山氏に協力して徳川埋蔵金の発掘調査を始めたのは37年前のことだが、場所は赤城山麓ではない。他にも赤城以外の場所で何人もの探索者と出会ったし、以後、自身で掘ったところも群馬県内だけで7カ所に上る。
全国の有力伝説地を30カ所以上歩き、10数カ所で発掘を行った自身のキャリアの中で、この徳川の埋蔵金が占める割合は大きい。それはやはり、いまだに何がしかのものがどこかに眠っている可能性が高いと考えるからだ。これまでにも「今度こそ!」という手応えを感じることが何度かあった。
ただ、現場を離れ、冷静に分析してみると、残された資料や痕跡についての解釈の誤りを認めざるを得ないことがあった。やっかいなのは、調査の対象となる材料があまりにも多過ぎることだ。140年にもわたり、実に多くの人が足跡を残したのだから無理もない。御用金埋蔵の直接的な証拠や手掛かりは皆無といっていいほどだから、後に続く者は、過去の探索者が何を根拠に掘ったのかを調べ、それを乗り越えていくしかない。中には、つじつまの合わないもの、明らかに捏造されたと思われるものもある。それらをきちんとより分けないと、あらぬ方向へ進んでしまう危険性がある。
そこで本シリーズでは、筆者の後に続く人たちのことも思い、過去の探索の経緯をできるだけ事実に沿ってトレースし、残された物証や推論などを徹底的に検証して真実をあぶり出してみたいと思う。(続く)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。