清水宗治や鳥居元忠などの名が忠臣として後々まで語られるようになったのも、それが当時としては珍しい例だったからだ。
また、軍師たちも合戦の作戦を立てるより、裏切りを誘う「調略」を仕掛けることが主な仕事だった。それほど調略に乗る裏切り者が多かったのだ。良い条件を提示されたら主君を鞍替え。それも、武将たちにとって当たり前の思考だった。
しかし、調略を仕掛けたほうが、当初の約束を守るとは限らない。生き残るために調略に乗ったが、約束を反故にされて悲惨な末路をたどった者も乱世には数知れず。例えば、丹波国の有力大名だった波多野秀治は、播磨で反乱を起こした娘婿の別所長治と連動して織田信長に反旗を翻すのだが、織田軍の侵攻によって窮地に陥る。幸い、本拠の八上城は険しい山岳地にある天険の要害だったので、大軍の包囲にも容易には落ちない。が、このままではいずれ兵糧が尽き、餓死するのは確実だ。
このタイミングで織田軍司令官・明智光秀は破格の条件で調略を仕掛けた。この時点では、まだ別所長治の播磨三木城は健在であり、毛利氏の後援も期待できた。
だが、危ない賭けをして織田軍に苦しい抵抗をするよりは、
「責任を問われず本領安堵されるなら…」
秀治は盟友たちを裏切って調略に乗ってしまう。この後、弟の波多野秀尚と共に、撤退する光秀に伴われて安土城へと送られた。
信長の前で頭を下げて謝罪すれば、それですべて終わり。丹波に帰りまた領主として君臨することができるはずだった。しかし、
「いまさら謝罪しても許さん! 兄弟一緒に磔刑に処する」
信長は非情に告げた。調略の条件は光秀が独断で決め、信長に事後承諾を得ようとしたが拒絶されたという。秀治は武士の面目を保つ切腹も許されず、磔柱に縛りつけられて、恨みの言葉を吐きながら絶命した。