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【戦国武将島津義弘編】命を懸けて家康を恫喝武士の意地を見せつける②

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提供:週刊実話

 絶対に退かない男・島津義弘。戦国乱世の最終戦である関ヶ原合戦でも、諸国の将兵はその伝説を思い知ることになる。西軍に属した島津勢だが、義弘が決戦場の関ヶ原に動員できた軍勢は、わずか1500。寡兵の島津勢を軽んじ、意見を聞かない総大将の石田三成に怒った義弘は、決戦を日和見。激戦が展開される関ヶ原の中央に陣取ったまま動かず、近寄ってくる軍勢に対しては東軍であろうが西軍であろうが、猛烈な銃撃を加えた。東西両軍の諸将は義弘の真意を測りかねた。このとき、義弘の胸中には西軍も東軍もない。天下の行く末よりも「俺が退かきゃ、それでいい」ということ。身勝手にも感じるが、大将さえ生き残っていれば戦いは負けではない。勝者となった東軍の家康を相手にした戦後交渉でも、敗者としてではなく堂々と渡り合うことができる。そのためにも、
「ここで、家康をビビらておくぞ!」

 西軍諸将が大潰走し、東軍の勝利が確定したところで、義弘は勝利に沸く東軍の諸隊で埋め尽くされる関ヶ原中央へ軍勢を進めた。大胆にも家康本陣のすぐ横を通り、美濃方面をめざして撤退を開始。慌てて敵勢が追撃してくるが、島津軍は要所に数人の小部隊が留まり、追撃してくる敵勢に激しい銃撃を加える。“捨て奸(がまり)”と呼ばれる非情の戦術。捨て置きされた兵たちが死ぬまで戦いつづけ、敵を足止めするのだ。この作戦が功を奏して、義弘は関ヶ原の強硬突破に成功し、生きて薩摩に戻ることができたのだが、1500名いた将兵のうち生き残ったのはわずか80余名という凄まじさ。

 家康を相手の戦後交渉で、島津家は取り潰されることなく本領安堵も認められた。他の西軍大名と比べて大甘の裁定。
「あいつを怒らせたら、今度は何をやらかすかわからん……」
 本陣のすぐ横まで迫ってきた島津勢の迫力は、家康の脳裏にも焼きついていた。命懸けの恫喝が効いたようだ。

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