1人目は仲元虎斉氏。筆者が知る限り、日本人として唯一この世界で実績を上げた人物だ。2人目が、半世紀以上にわたって全国100カ所以上の埋蔵金伝説を調べあげ、マニアからバイブルと評価される著作を残した畠山清行氏。そして最後が、日本で初めて埋蔵金探し専門の会社を立ち上げ、豊富な資金力を元に有名伝説地を片っ端から掘りまくった吉田錦吾氏である。
仲元氏と初めて会ったのは、1977年(昭和52年)の秋だった。場所は群馬県利根郡新治村(現みなかみ町)の永井という昔の宿場跡。埋蔵金研究の権威である畠山清行氏の依頼で、幕末の徳川の御用金探しを手伝うことになり、仲間4人を伴ってそこへ行き、民宿の一室で対面した。
山口県光市からやって来た仲元氏は、畠山氏のパートナーでありスポンサーでもあった。当時、畠山氏が71歳で仲元氏が67歳。筆者はやっと30歳になったばかりだった。発掘のための資材費や宿泊費などは、すべて仲元氏が負担するという。
そして畠山氏から、「彼は元朝鮮総督府工務部の役人で、剣道の達人だ。いかめしい顔をしているし、僕のような自由人とは肌が合うタイプではないが、君たちも何とかうまくつきあってほしい」と言われていたし、もらった名刺には造船会社の社長という肩書きがあるので、最初は身を固くしていたが、実に気さくな人でわれわれとは気が合った。
猥談の名人で、朝鮮半島で精力剤として珍重される青いアワビの効用を、身振り手振りで説明してくれるときには大笑いした。結局、その場所で翌年の夏までの1年弱の期間、数次にわたって寝食を共にしたのを皮切りに、仲元氏とは以後10年以上の長い付き合いになったのだから、いい出会いだったといえるだろう。
筆者が仲元氏に憧れの気持ちを抱いた最大の理由は、実際に巨額の財宝を発見した実績があることだった。われわれは当然そのことを聞きたがった。そして同氏は、求めに応じていきさつと興奮の瞬間を細かに語ってくれた。
終戦後間もないころのこと、仲元氏は大阪駅で後に首相となる岸信介氏とばったり会った。同郷の岸氏とは、以前満州で顔見知りになっていた。A級戦犯被疑者として巣鴨拘置所に収監されていた岸氏が、無罪放免されたのは昭和23年12月24日だったから、この出会いはそれよりも後ということになる。
岸氏が政界への復帰を目指していたころで、当時無職だった仲元氏は、何か仕事はないかと相談を持ち掛けた。専門は土木・建設関係。すると後日連絡があり、思いがけない秘密の大仕事が舞い込んだのだ。
それは、終戦間際に旧日本軍が台湾各地に隠した軍用物資を探し出すことだった。岸氏は台湾の蒋介石総統と親密な関係にあり、調査は総統からの依頼だったと思われる。ただし、見つかったものはすべて台湾のものとする約束が取り交わされていた。
好奇心も手伝って、これを引き受けた仲元氏は、以後約10年にわたり現地で任務に当たる。台湾政府の役人と旧日本軍の将校と共に、機密文書を手に各地を回って発掘を行った。
その結果、大量の新品の軍服や毛布、工作機械、兵器類、弾薬が次から次に見つかった。そしてクライマックスは、基隆の旧日本軍施設の調査中にやってきた。分厚いコンクリートの床をダイナマイトで爆破すると、カビ臭い地下室に通じ、奥に置かれた棚の上に鈍い光を放つ金塊が無造作に積み上げられていたのだ。重さ2キロのものが63本、しめて126キロあった。
このとき仲元氏が手にしたのは、任務の報酬と記念に作ってもらった3個の金杯。見つけた金塊だけでも、今なら約5億6千万円に相当するから十分とはいえないかもしれないが、最初からの約束だから仕方がない。ただ、調査に使ったアメリカ製の電気探知機を日本に持ち帰ることができたので、仲元氏はこれを使って国内で埋蔵金探しをしようと思い立った。そして、畠山氏の著書を読みあさり、数ある伝説の中から絞り込んだターゲットが『結城晴朝の埋蔵金』だった。
本業の造船業は好調で、鉄板をカットした後に出るスクラップを売却するだけで、月に400万円ほどになった。それを資金に、晴朝の隠居所跡といわれる栃木県河内郡南河内町(現下野市)本吉田の会之田城跡の発掘に乗り出したのである。
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。