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【戦国武将斎藤道三編】親殺しの汚名に耐えられず35歳の若さで急死を遂げる

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提供:週刊実話

 義龍は喜平次を稲葉山城に招き、酒に酔わせて油断したところで家臣に襲撃させた。喜平次は日頃から道三に同調して、義龍をからかう言動も多かった。兄を兄とも思わぬクソ生意気な弟に、腸が煮えくり返っていた。相手が自分のことを兄と思わないのだから、こちらも肉親の情をかける必要はない。家臣に命じて有無を言わせず、無慈悲に惨殺してしまう。そして旗揚げ。天下の名城である稲葉山城を本拠に、道三に戦いを挑んだ。幸い、美濃国人衆の多くは、義龍が土岐頼芸の落胤という噂を信じている。旧守護家を慕う者たちが次々に義龍のもとに馳せ参じ、兵力的には圧倒的優位。弘治2年(1556年)に長良川河畔で勃発した骨肉の争いは、義龍が勝利。道三はボロボロに切り刻まれ、首を討ち取られてしまう。道三の首は、鼻を削がれた無残な姿で晒されたという。義龍の恨みの凄まじさがわかる。しかし、道三が彼を廃嫡して喜平次を後継にしようと画策した証拠は何ひとつない。また、義龍が土岐頼芸の子だという確証もなく、すべては噂の域。父子ともに根も葉もない噂に過剰反応したのか? だとすれば、似たもの親子といえなくもない。道三が息子に冷淡だったのも、息子が父を殺したのも、すべては近親憎悪によるものだ。

 勝者となった義龍ではあるが、「親殺し」という後ろ暗い前科に生涯苛まれることになる。主君を追放した道三の不忠と同様に、背負わされる十字架は重い。義龍はこの後、土岐氏の旧臣を重用し、自分を土岐頼芸の実子であることを強く印象づけようとした。美濃国内で根強い人気を誇る土岐氏の名声を、政治利用する意図もあっただろう。また、自分が頼芸の子であれば、道三とは赤の他人。親殺しの悪行からは逃れることができる。そして、実の親である頼芸の仇を討ったことにもなる。

 しかし、道三を殺してから5年後の永禄4年(1561年)、義龍は35歳の若さで流行病により急死している。治世は短いが統治の手腕は高く、彼の存命中には美濃侵攻を狙う織田信長も攻め手を欠いていた。政治も軍事も無能だった土岐頼芸とは似ても似つかない…領国を安泰させたことが、道三の遺伝子を証明する結果となり、親殺しの罪を証明するものになるとは、なんとも皮肉ではある。

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