「やった、宝庫にたどり着いたぞ!」
三枝は驚喜した。そして、きっと大騒ぎになるに違いないと考え、周囲に有刺鉄線を張り巡らし、黄金数万枚を収納できる約1立方メートルの鋼鉄製の大金庫を用意した。
しかし、それはぬか喜びに終わった。敷かれた石の下から黄金はかけらさえ現れず、掘っても掘っても赤土の地山、つまり自然層が続くだけだった。
このときの金庫は、筆者が足しげく赤城山麓北方の昭和村に通っていた'90年代の終わりごろまでは、無人となった発掘小屋の裏手に錆び付いたまま放置されていた。小屋の表側には、やはり錆びたウインチが転がり、すぐ近くにはいくつめかの穴があり、安全対策としてかぶせられたコンクリートの蓋をめくると、まっ黒い闇がのぞいていた。
夢の跡…。
その言葉が自然と頭に浮かぶ光景に、同行した仲間があぜんとしていたのを記憶している。筆者が初めて三枝に会ったのは'70年のことだから、20年以上たったころの話だ。
人づてに、彼が高崎の老人ホームで90年の生涯を閉じたことを聞いたのが'74年。それから数えても随分と時が経っていた。小屋や金庫を含め、地上に残されていたものがきれいさっぱり片づけられ、危険な穴も埋め戻されたのは、TBSテレビが例の発掘番組の続編として、一帯を掘ることになった'99年の暮れのことだ。直後にその場所を見に行った筆者は、三枝の発掘にようやくピリオドが打たれたことを実感した。
三枝が掘った場所は、隣家の石田政子さんが所有する土地だった。30年以上も借りていたことになる。その石田さんの言葉が思い出される。
「三枝さんは、総理大臣にしてもいいくらいの人でしたよ」
夢のような話に取り付かれ、食うや食わずでひたすら穴を掘り続ける人間に対して、正気を疑うのが普通だと思うが、石田さんの見方は違っていた。黄金発見の期待があったかどうかはわからないが、三枝が私利私欲ではなく、世のため人のためにあえて苦難の道を歩んでいることを信じ、見守っていたのだ。
しかし、彼は成果を得ることはできなかった。もっと厳しい言い方をすれば、徳川埋蔵金の糸口は何一つつかんでおらず、後に続く者への示唆めいたものさえ残していない。そもそも、『双永寺秘文』の謎解きの内容もお粗末で、たどり着いた百庚申(ひゃくこうしん)が特別の存在とは考えられない。庚申塚なんて、田舎に行けばどこにでも残っている。
何よりも、掘った穴の深さが50メートルにも60メートルにもなるというから、その執念には敬服するものの、埋蔵金探しであれば全くムダというしかない。TBSテレビの発掘番組も同じくらいの深さまで掘っているが、そんなところに隠すはずがない。
遺棄したのならともかく、埋蔵金はあくまで一時的に隠したもの。しかるべき後に再び世に出さなければならず、そのときは緊急を要するはずである。掘り出すのに何カ月も何年もかかるようでは意味がない。
そのことを考えずに、見つからなければ「もっと下だ」と、ただやみくもに掘り続ける人が多い。昔も今もそうである。
さらに、三枝の現場から出土したという「金山」「宝」「○上」といった文字や記号が刻まれた50点を超える石は、間違いなくねつ造品である。5メートル、10メートルと掘り進めるうちに地下から出てきたというが、地上に何らかのカムフラージュをして置くのならわかる気もするが、地下にそういうものを埋め込んでも、探索者を宝庫へ導く物証の役目を果たすことはできない。
警察署長を務めたほどの三枝氏自身が、スポンサーをその気にさせるためにでっち上げたとは思えないので、おそらく、作業を手伝っていた周辺の人物がこしらえたものだろう。悪意があってやったことかどうかはわからない。
現在、長井小川田のその場所には、百庚申とともに『徳川幕府埋蔵金犠牲者萬霊供養塔』と刻まれた石碑が雑草に埋もれて建っている。施主3名の筆頭には、もちろん三枝茂三郎の名がある。(完)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。