高千穂明久という地味な中堅レスラーがエンターテインメント性を追求し、その境地にたどり着いた変遷は、プロレスの歴史そのものを体現したとも言えよう。
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興行としてのプロフェッショナルレスリングの始まりは、19世紀の初頭、アメリカでグレコローマンスタイルの賞金マッチの記録が残されている。
1905年(明治38年)に初代統一世界ヘビー級王者となったジョージ・ハッケンシュミットの必殺技とされたのは、筋骨隆々の肉体から繰り出されるベアハッグ。この頃は、現在のようなロープワークなど存在せず、グレコに欧州キャッチレスリングのサブミッション(関節技)をミックスしたような試合形式であったと伝えられている。
1920年頃にはベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)の役割分担などの様式が生まれたが、当時の代表的選手であるエド・ストラングラー・ルイスの必殺技はヘッドロックで、膠着状態のまま試合が1時間以上に及ぶことも珍しくなかったという。
40〜50年代には、貴族ギミックのきらびやかなコスチュームと罵詈雑言のマイクアピールで、ゴージャス・ジョージが人気を博し、以降は、ショーアップされた現代のプロレスへとつながっていく。
技術と体力比べだった地味な試合ぶりが、だんだんと観客を意識した派手なものになっていく。これはプロレスの歴史と同様に個々の選手にも見られる変遷であり、さしずめザ・グレート・カブキはそれを極めた代表的な1人と言えよう。
1964年に力道山亡き後の日本プロレスに入門したカブキは、同年に高千穂明久のリングネームでデビューする(高千穂は出身地である宮崎県に由来したもので、本名は米良明久)。
「カブキが若手の頃にはカール・ゴッチが日プロでコーチを務めていた。後年にカブキ自身は、ゴッチの強さに懐疑的な発言もしていますが、技術的な面での影響は少なからずあったはずです」(スポーツ紙記者)
'70年に初のアメリカ武者修行を経験し、'72年に凱旋帰国。同年の全日本プロレス移籍のあたりまでは、そうして身につけたテクニックを駆使する正統派の中堅レスラーにすぎなかった。
「この頃にもいくつかのタイトルを獲得していますし、得意技のアッパー・ブローもすでに使用していましたが、それでも地味な印象は拭えませんでした」(同)
転機が訪れたのは70年代後半、全日本を離れてアメリカに主戦場を移してからである。
当初はいわゆる田吾作スタイルの典型的な日本人ヒールとして活動していたが、'81年、たまたま日本の歌舞伎役者のグラビアを見ていたマネジャー兼ブッカーのゲーリー・ハートが、白塗り隈取りのことを知らずに「このマスクはどうなっているんだ」と尋ねてきた。このことをきっかけにして、ペイントレスラーのザ・グレート・カブキが誕生する。
★全日本マットへ“逆輸入”参戦!
最初は単に顔面ペイントをしただけで、それでも当時としては珍しく、観客の反応も上々だったという。さらに客が慣れてきたところで、新趣向としてダブルヌンチャクのパフォーマンスを取り入れ、鎖かたびらに帯刀など、コスチュームを進化させていく。
人気を決定づけたのは、なんと言っても毒霧である。
「並みの選手なら顔面ペイントがウケたことで満足しますが、次々と新ギミックを追加したのがカブキの先進的なところ。そこまで観客を意識してエンターテインメントを追求するレスラーはなかなかいません」(同)
毒霧にしてもただ吐き出すだけでなく、「試合前は不気味なムードを醸し出す緑、試合終盤には流血と混じってより凄惨にみせる赤」というように、その見栄えにまで徹底的にこだわった。
また、毒霧に焦点を絞るため、それまで培ってきたレスリング技術をギリギリまで削ぎ落としたのも、カブキ流のプロ意識と言えよう。こうした戦略が見事に当たり、米マット界のトップヒールに上り詰めると、日本から参戦要請が届く。
'83年、全日本へ逆輸入参戦すると、米マットの評判もあってジャイアント馬場やジャンボ鶴田以上の大人気を呼び、試合会場は連日の満員御礼。少年ファンたちが毒霧を真似る、一種の社会現象まで巻き起こした。
「ただ、日プロ残党で外様のカブキを面白くないという人間も多かったようで、馬場や鶴田と同等の格付けをされることがなかったのは残念でした。日本勢の助っ人ではなく、ヒールとして鶴田に毒霧攻撃を仕掛けるなどすれば、もっとすごい人気になったと思うのですが…」(同)
このあたりはアントニオ猪木の弟子である平田淳嗣(旧名・淳二)をメインイベンター扱いした新日本と、プロレス哲学の違いが見えるようで興味深い。
ザ・グレート・カブキ
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PROFILE●1948年9月8日生まれ。宮崎県延岡市出身。身長180㎝、体重110㎏。
得意技/毒霧攻撃、トラース・キック、アッパー・ブロー、オリエンタル・クロー。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)