ところが昨年の6月、4年ほど前に知り合った地元出身のT氏から、新たな場所の調査について相談を受けた。聞いてみると、全く知らない場所ではない。やはり5年ほど前に、研究家のI氏の案内で一度行ったことがある。そこは結城城址から南東へ300メートルほどのところにある羽黒熊野神社。何となくショボく感じられて、黄金伝説の舞台としてはぱっとしないのだが、I氏は探査機が金属反応を示した場所があると言う。
以前は子供の遊び場になっていて、砂場の跡のようだったし、周りにブランコなどの遊具があったそうだから、それらを壊したときに埋めたのだろうと、そのときは筆者は気にも留めなかった。しかしT氏は、その探査結果をもう一度見直してくれと懇願する。
探査機をかけたのが日本トレジャーハンティング・クラブの仲間で、ドイツやアメリカの高性能の探査機の輸入販売をしている肱岡則幸氏だったことは知っていたので、すぐに問い合わせてみた。すると、
「私もずっと気になっていたんですよ」
と、意外な答えが返ってきた。
「穴を掘って子供の遊具を埋めたんじゃないんですか」
と、筆者が思ったままをぶつけると、
「3メートルも下なんですよ。深すぎませんか」
と言う。3メートル。確かにそれは深すぎる。ガラクタを埋めるのにそこまで掘る必要はない。となると…。
「実は新しい探査機で、もう一度調べてみたいと思っていたんですよ。鉄くずと貴金属を識別できるヤツですから」
肱岡氏は言った。
「わかりました。僕の方でちょっと動いてみることにしましょう」
とまあ、そんなやりとりがあった後、すでに現地の下見を終えていたT氏に会い、作戦を立てることにした。
“幕末の徳川の埋蔵金”“太閤秀吉の黄金”と並んで、日本三大埋蔵金の一つに数えられる“結城家の財宝”。そのルーツは奥州平泉にある。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした際に持ち帰った黄金その他で、従軍して手柄を立てた小山朝光がその全てをもらい受けた。朝光の実母は頼朝の乳母で、兄弟同様の関係であったこと、小山氏と藤原氏が遠祖を同じくすることから、頼朝がその遺産を引き継がせたのだった。
その後、朝光は結城姓を名乗って北関東一帯を治め、莫大な財宝は17代にわたって保管されてきた。ところが、戦国時代の末に徳川家康がこれに狙いをつけて没収しようとたくらみ、それを察知した17代結城晴朝が、どこかに埋蔵したというのだ。それが結城伝説のあらましである。現存はしないが、家臣が書き残したという秘文書があり、それによると、隠されたのは金の延べ棒が約5万本、8貫(30キロ)の砂金の樽が108個。しめて300トン超という途方もない量だ。
関ヶ原の戦いの後、家康は結城家を越前福井へ移してその跡を天領とし、城周辺を必死に探させたが見つからず、8代吉宗の時代にも大岡忠相が、晴朝の隠居所だったという会之田城跡(栃木県下野市本吉田)の発掘を行ったが、掘った穴が崩れて11人の犠牲者を出すなど大失敗。さらに幕末にはまた幕府の手で、明治以降も多くの探索者が挑戦したが、黄金はかけらさえ見つかっていない。
では、羽黒熊野神社はどの程度可能性があるのだろうか。そもそも、そこが怪しいと言い出したのは市の図書館の元館長で、郷土史の研究をしていた際に、とある文書を見つけ、I氏に相談したのだそうだ。
どのような文書だったのか、元館長が亡くなった今はわからない。肱岡氏も探査機を操作しただけで詳しい話は聞いていない。わずかに耳に残っているのは、キーワードが“松の木”だったこと。そこで、古い松の木の跡を求めて、大勝寺という寺と羽黒熊野神社の2カ所を調べた結果、神社の方で当たりがあったのだった。
現地へ行くタイミングをうかがっている矢先、旧知のテレビ番組制作会社の人から、新しいネタについて相談があった。これ幸いと結城の件を説明して、まずはロケハンに出掛けることにした。再度探査機をかけるにしろ発掘まで進むにしろ、交渉事はテレビ番組絡みでやった方がうまくいく場合が多いからだ。
筆者はそこで、5年前に見落としていたものに驚愕することになる。(続く)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。