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【戦国武将今川義元編(1)】僧となっていた兄弟が武将としての野望をあらわに

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提供:週刊実話

 自分の遺伝子を宿す嫡子をつくる。それも、戦国武将の重要な仕事だった。乱世なだけに生命の消耗は激しく、跡継ぎが先に戦死することも多々ある。そのため息子は1人でも多いにこしたことはなく、武将たちは正室に他に多くの側室を相手に子づくりに励んだ。

 しかし、多くの子を残してもそれでお家安泰とはならず、むしろ、後継争いのお家騒動が起こる危険性も大。兄弟とはいえ母が違えば住む場所も違い、ほとんど顔を合わせることはなかった。子供たちは現代のように、兄弟愛を感じるような環境にはなく、跡目を争うライバルといった意識が強かった。それだけに戦国期には、異母兄弟による骨肉の争いが数えきれないほど起こっている。

 例えば、今川義元と異母兄・玄広恵探(げんこうえたん)による後継争いは、家中を二分する「花倉の乱」と呼ばれる内紛に発展している。今川家のような名族の巨大大名には、強固な地盤や大兵力を保有する有力家臣や親族も多い。それらが自らの出世や勢力拡大を狙って跡目争いに介入するものだから、凄惨な武力抗争となることが過去にも多々あった。

 今川家ではそれを防ぐために、後継候補となった者以外の男子はすべて出家させて僧としていた。義元は栴岳承芳(せんがくしょうほう)を名乗って京の建仁寺に入り、恵探もまた遍照光寺(静岡県藤枝市)の住職となった。

 このまま跡継ぎに指名された長兄が当主となれば、二人の兄弟は殺し合いをすることもなく、僧として平穏な日々を過ごせただろう。しかし、天文5年(1536年)に当主の今川氏輝、その後継に指名されていた今川彦五郎が死去してしまう。この相次ぐ急死には不審な点も多々あり、それによって恩恵を受ける恵探や義元の関与が疑われる。

 とくに恵探がいた遍照光寺は、駿府とは目と鼻の先。陰謀を企てるには都合のいい場所だ。実際、恵探は即座に動いて体制を固めている。京から慌てて帰国するライバルの義元に比べると、「時間」を有効に使うことができる。

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