「昨夜はどこに行っていたんだ? 何か良からぬことを企んでいないか?」
更生した前科者を疑って、刑事が職場まで来て嫌がらせ。そんな感じで、幕府の官吏が毎日のように尋問にやってくる。嫌がらせやいじめともとれる。さすがに盛親も我慢の限界。豊臣秀吉の遺児・豊臣秀頼と家康が対立するようになると、京を脱出して大坂城に馳せ参じ、大坂の陣で大暴れ。落城後に捕らえられて斬首刑となっている。
盛親と同様、関ケ原合戦後に所領没収されて浪人者となった多く西軍諸将が、大坂の陣では豊臣方に参陣して戦ったが、不穏分子である関ヶ原浪人は一斉に粛清された。
また、東軍に与した黒田家重臣だった後藤又兵衛が、大坂方に与して戦い壮絶な戦死を遂げている。又兵衛は当主の黒田長政との関係が険悪となり、1万6000石の封地を捨て出奔したものである。
関ケ原合戦後、黒田家の領地は12万石から52万石に増えたのだが、領地替えにより長政と不仲だった細川忠興の領地と隣接することになった。「細川家のスパイが入って領内を嗅ぎまわっているぞ」などと、黒田家中の警戒心は高まる。また、細川家に知人が多かった又兵衛にも「内通しているのでは?」と、疑いの目が向けられた。これも、長政との関係が悪化した大きな要因となった。関ケ原合戦の勝ち組といえども、移封などによる急激な環境の変化により、家中がギクシャクしたりお家騒動の火種となることは多々あった。