1948(昭和23)年、「競馬法」の施行により、八王子競馬は一部の開催を除いて主催者は東京都が管理、運営することとなった。これは当時、はやっていたヤミ競馬…いわゆる騎手や馬主による「八百長」を阻止するための対策として、成立した経緯が強い。実際、ファンの中には八王子競馬に対し、当時、日本を統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に不正を告発するものもあったという。
これらの事態を受け、八王子競馬は新設された大井競馬場に代替する形で開催権を譲り、49(昭和24)年12月28日の開催を最後に20余年の歴史に幕を閉じた。
しかし、開催がなくなった後も、八王子競馬場は「八王子牧場」として“第2の人生”を歩み出すことになる。
大井競馬場は開場と合わせ、馬資源の不足を補うため、抽せん馬制度を設けた。その購入馬の繋用や調教、また、故障馬の放牧先として、白羽の矢が立ったのである。
一方で、八王子市は競馬場跡地を市営住宅にしようとのプランがあり、土地の払い下げを都に陳情。跡地をめぐり、かつての主催者同士がぶつかり合うことになるが、都は慎重に討議を進めた結果、競馬場を残すことを決定する。
この背景には、区域内に2つの競馬場を持つことが許可されていた当時の「競馬法」が大きくかかわっている。八王子競馬から完全撤退となれば、国から開催権の放棄とみなされる可能性があったためだ。また、将来的に浮上するであろう、新競馬場の建設なども視野に入れての決断でもあった。
こうして跡地は八王子牧場として新たな出発を迎えることとなり、経営は現在のTCK大井競馬場を主催する特別区競馬組合があたった。
その後、八王子牧場は大井競馬の“プチ・トレセン”的な役割を担う一方、54(昭和29)年に関東地方競馬組合の騎手講習所、62(昭和37)年には騎手学校が開設されるなど、後進の育成においてもひと役買った。
そして、64(昭和39)年に騎手学校が栃木県塩原町(現在の那須塩原市)へ移転したのを機に、翌65(昭和40)年、静かに閉場を迎えた。八王子牧場の“後継”は、同年に開場した千葉県印旛郡印西町(現印西市)の小林牧場(トレセン)が担い、現在は大井競馬の分場となるに至っている。
※参考文献(大井競馬の歩み/悲運の多摩八王子競馬/八王子の歴史と文化)