逆に、使えるとなれば積極的に勧誘、有力ポストに就けてさらなる成長を促すといった姿勢である。この連載に登場した金丸信、梶山静六が後者に該当し、この野中広務もまたその一人であった。
田中と野中は、ともに成績はよかったが、家庭の事情で学歴は田中が新潟県二田村の尋常高等小学校卒、野中は旧制の京都府立園部中学卒にとどまった。
田中は15歳で上京、土工などの職を転々としながら、やがて全国施工実績で50位以内に入る土建会社を興して事業に成功、それを足場に政界入りを果たし、やがて「今太閤」「庶民宰相」として天下を取った。
一方の野中も、田中同様の「叩き上げ」である。中学を出ると大阪鉄道局に勤め、地元の青年団活動を通じて政治を厳しく見詰め、26歳で京都府園部町の町議となった。その後、園部町議会議長をやっていた32歳のときに、当時、39歳で郵政大臣に就任した田中と出会うことになる。東京・目白の田中邸における陳情であった。そのときの田中の印象を、野中自身が次のように記している。
「園部町の郵便局が老朽化して困っていると、建て替えのための陳情書を持って伺った。『郵便局か。よし、分かった』で、ろくに私の説明も聞かず、傍らの秘書に『早急に処置』と書いたメモを渡し、『すぐ役所に届けろ』と言っていた。その翌年6月に、田中さんは内閣改造で郵政相を辞められていたが、補正予算にはちゃんと郵便局の改築費用が入っていた。
その後、融資を受けに大阪郵政局へ出向いたのだが、局長にこう言われた。『改築の順番は、ホントはあんたんところは3番目だったんや。あんたが田中大臣のところへ行ったことで、順番を狂わせてしもた』と。
田中さんは一町議の私でも丁重に扱い、責任を持って誠実に対応してくれた。政治家かくあるべきと思った」(『新潮45』2010年7月号=要約)
その後、野中は町長から京都府議、京都副知事を経て、昭和58(1983)年に中選挙区時代の〈京都2区〉から衆院補欠選挙に出馬、初当選を飾っている。57歳であった。時の補選は2議員の死去に伴うもので、もう一人の当選者が父親の跡を継いだ谷垣禎一・元自民党総裁だった。
当選した野中は、あの陳情以後、何かにつけて田中との関係を保っていたことから、迷うことなく田中派入りした。
すでに田中は金脈・女性問題の不明瞭さを突かれて、首相の座を追われるように退陣し、その後のロッキード事件で逮捕という中での田中派入りだった。野中の地元からは、なぜあの田中のもとに身を寄せるのかとの批判もあったが、揺るがずの田中派入りだった。
当時の田中派担当記者の弁がある。
「野中には、田中から直接の出馬要請が来て、田中派幹部の竹下登が口説きに出た。竹下は『君のような議会と地方行政経験のある奴こそ、いま国会が求めている人物だ』と熱心だった。竹下は竹下で、やがての天下取りを目指していただけに、一人でも田中派内に手兵が欲しかったのだ」
★希代の「ケンカ上手」
そうした田中の“野中買い”の背景には、野中の腕っ節の強さがあった。度胸これ以上なし、希代の「ケンカ上手」ということである。時に、田中もロッキード事件への批判が渦巻く中、中央突破を図るには「ケンカ上手」の手下が欲しいということであった。
田中は野中の、特に次のようなケンカぶりを評価していた。
野中は京都府議時代、時の共産党が担いだ蜷川虎三・京都府知事に強い対抗心を持ち、その知事を支えた京都府職員労働組合などがやっていた組合の「ヤミ専従」を徹底的に叩いてきた。
「ヤミ専従」とは、府の職員などとして府から給料をもらい、組合活動に専従していたことを指す。
野中はスキャンダル情報を徹底的に集め、この追及に尽力したのだった。
結果、さしもの「共産党府政」も弱体化、昭和53年の京都府知事選で自民党がようやく“府政奪回”を果たすと、野中は請われて副知事に就任した。また、この副知事ポストでも、人事権を駆使して組合の分裂を策すといった徹底ぶりであった。
人事による分断工作により、組合の無力化をうかがったということである。
その野中が田中の眉を曇らせたのは、竹下が近い将来の天下取りを期し、田中派の“派中派”として「創政会」を旗揚げした際、それに同調したときであった。
このケースは、田中の子飼いだった前出の金丸や梶山と同様の動きであった。
ロッキード事件で傷だらけとなった田中は、なおも「闇将軍」として復権と影響力温存に腐心していたが、田中派内の息苦しさはピークに達していたのだった。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材50年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。