その黄金町で働くのはタイ人やコロンビア人の娼婦たちが多かったが、中には中国人の娼婦たちもいた。そのうちの一人が、娼婦としての過去を消し、現在も日本で暮らしている蘭玲である。
蘭玲は現在、かつての職場である黄金町から、電車で30分ほど離れた場所に暮らしている。現在、37歳になるというが、小柄なこともあり、ひと回りは若く見える。すでに20年近く日本で暮らしていることもあり、中国訛りはあるものの日本語はペラペラだった。
そんな蘭玲はなぜ黄金町で体を売っていたのか――。
「出身は上海で、両親と暮らしていました。生活には困っていなくて、日本のアニメとか生活に興味があって日本に来たんです。売春を始めたのは、ただ単に遊ぶお金が欲しかったからなんです」
日本で働く外国人娼婦といえば、貧しい一家を支える孝行娘というイメージがある。しかし、彼女は見事にその概念を覆してくれた。
「当時、私は新宿の日本語学校に通っていて、新大久保に住んでいたんです。今もそうですけど、そこには中国人が多く暮らしていて、そこで友達から『黄金町で働けばたくさん稼げる』という話を聞きました。あの時代、黄金町で働いていた中国人は、新大久保の中国人が多かったと思います。みんな黄金町のヤクザが手配してくれた車で、働きに行っていました」
そこで、蘭玲は想像もしていなかった大金を稼ぎ出した。
「部屋の使用料として1日に2万5000円を払うのと、ママから仕事で使うコンドームを買ったのぐらいで、あとは自分の取り分です。そういえば、高かったのは、ヤクザから年末に買わされた8万円の門松かな。おもちゃみたいな門松で、普通に買ったら1000円もしないようなものでした(笑)。お客さんは、少ない時で1日に10人、多い時で20人ぐらいかな。一人相手にすると1万円をもらったから、1日平均で確実に10万円以上は稼いでいましたね。でも、そのお金でディスコに行ったり、洋服を買ったり、全部遊んで使っちゃいました」
そんな日々を送る中、彼女の人生に大きな変化が訪れる。日本人男性と結婚したのだった。
「彼は、何度も私のところに遊びに来てくれたお客さんだったんです。横浜から新大久保まで送ってくれたりして、優しい人だと思いました。それと、その頃に黄金町が摘発に遭ったんです。働く場所がなくなったんですが、夫はしっかり仕事をしていてお金持ちだったから、この人と結婚してもいいなと思ったんです」
結婚してからは、パートもせず、専業主婦として暮らしている蘭玲。現在、夫との間に小学校2年生になる娘にも恵まれ、日々の生活に何の不満もないという。
「家の近くには、中国人の友達もいるので、会いたい時にいつでも会えます。夫は、帰りたい時にいつでも中国に帰っていいと言ってくれていて、自由に生活させてくれるんです」
蘭玲の夫は自営業者で、年収は1500万円ほどあるという。自由に使えるクレジットカードを与えられており、そのおかげで蘭玲は年に3回は故郷に帰り、しかも子供の夏休みや冬休みに関係なく1カ月以上も滞在する。日本の一般的な夫婦関係からすれば、変わっているように思われるが、中国人の彼女はこれを当たり前だと思っていて、日本のスタイルに合わせるつもりは毛頭ないという。
まさに、誰もが羨む悠々自適の生活を手に入れた蘭玲。しかし、現在も交流のある人々の中に、彼女の過去を知る者は夫以外いない。両親や今の友達にも一切話しておらず、当時、働いていた時も、なるべく同郷の女性とは仲良くせず、上海以外の出身者と付き合っていたという。当時の仲間はどこへ消えたのだろうか。
「日本に残っているのは、私だけですよ。みんな中国に帰っちゃいました。私は全部お金を使っちゃったけど、他の人は一生懸命貯金していましたよ。北京出身の子は、2000万円ぐらい貯めて、北京でラーメン屋をやっています。他には、日本語学校の先生をしている人もいます。みんな日本で頑張って働いて、中国で何かビジネスをしようと考えていたんです」
そんな仲間との交流は、今も続いている。
「中国に帰った時は、必ず会いますよ。もう20年近く経ちましたから、懐かしくなるんです。また売春をやりたいとは思わないけど、お金をいっぱい稼いだのは、いい思い出です」
年に何度か中国で開かれる、元娼婦たちの同窓会。そんな彼女の姿を見ていると、もちろん過去は消しているものの、あまり後ろめたさを持ち合わせていないような気がする。そんな時代があったねと、あくまでもさっぱりしているのだ。
エイズなど性病のリスクもある娼婦として生きたことにより、今の暮らしを手に入れた蘭玲。彼女がどこまでそう意識していたかは定かではないが、売春はあくまでも人生を切り開くひとつの手段だった。人生は結果オーライ。そう考えれば彼女の態度にも納得がいくのだった。