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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(28)

 先週に続いて、根岸競馬場の昔を知る関係者の座談会をお届けする。

 W(元理事) 1本だけの練習馬場の狭さで困ったことは?
 K(元騎手) 1周1500mぐらい。追い切りのときなんかおっかなかったな。後ろから、2頭くらいで併せ馬でこられると…。
 B(元騎手) 僕は繋駕馬レースのとき、ぶつかって埒(らち)を越え、1メートルぐらい土手の下へ車をつけたまま落ちたことがあってね。体が馬の上に飛ばされて、馬の頭をその上から夢中でおさえていたんだよ。それで何事もなかったが、馬が起きたら大変だったね。おかげで、あとで褒められたんだよ。

 −−服装が厳しく、クラシックの演奏もあった。
 W 何年ごろのことかな?そんなことがあったんで、コースを修理したのかな。…ところで昭和4年(1929年)の競馬番組を見ると、その年の春は勝馬確定や着順変更などの表示は、それぞれ色別の信号旗を使っていたのが、秋になると色別の信号灯になっている。この年、新スタンドが完成しているから、それに伴ったものなのかな。
 N(元騎手) そのころ、正午はサイレンではなく、ドンが鳴っていたね。あれはどこからだったのかな。
 K 横浜競馬の昼休みには音楽演奏をやっていた。
 W いつまでやっていたのかね。
 K 昭和の8、9、10年ころ、競馬倶楽部時代で終わったかもね。
 K 一流の演奏者を呼んできて、クラシックをね。それだけ競馬は高尚な楽しみだったのだな。
 T 紳士、淑女のね。
 W 横浜競馬は外国人さん中心で、特異なムードがあったよね。音楽もそうだが…。食堂は帝国ホテルだったのかな。
 K いや、ホテル・ニューグランドだったと思う。
 N 一般のところは別だった。一般の方は洋食が川村屋。ウナギのわかなと並んでいたね。寿司はどこだったかな。たしか、泉平だったな…。

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