では、メンバー5人のうち4人が心中することを決めた飯島氏とは、いったいどういう人物なのか。
そもそもジャニーズ事務所は、社長のジャニー氏、副社長でジャニーの姉であるメリー喜多川、メリーの愛娘である藤島ジュリー景子による、完全なるファミリー会社だ。そこへ、初めて部外者が入社。それが、大学を卒業して間もない飯島氏だった。アルバイトをへて社員になった飯島氏が、最初に担当したのはSMAP。結成した1988年前後だと思われる。
当時、空前の大ブームを巻き起こした光GENJIを欠いたジャニーズは、SMAPに多大なる期待をかけた。しかし、歌番組が衰退の一途をたどり、SMAPは不良債権も同然。そんなとき、バラエティ番組に進出させて、司会、体当たり企画、話術、回しのテクニックなどを現場で体感させたのが、飯島氏だ。“平成のドリフターズになる”という御旗を掲げ、当時のアイドルではチャレンジしないであろう経験を、10代のうちに積ませた。
20代の遊びたい盛り、30代の結婚適齢期、そんな人生のすべてをSMAPに費やした飯島氏。SMAPが日本を代表するトップアーティストになれたのは、ジャニーズ事務所という大きな傘下であったことも大きい。しかし、それ以上に、海の物とも山の物ともわからない10代の青年たちを束ね、叱り、ともに成長していった飯島氏の功績が大きい。
ちょうど1年前、『週刊文春』が、かねてから囁かれているジャニーズの内部にメスを入れ、メリー氏に独占インタビューをしている。そこでは、娘のジュリーが次期社長候補だという噂をはっきり認め、「もしジュリーと飯島が問題になっているなら、私はジュリーを残します。自分の子だから。飯島は辞めさせます」と断言している。さらに、「飯島がジュリーと対立するということは、私と対立するということ。だったら、どうぞ自分のところで別に(会社を)作ってください」と情け容赦ない言葉を浴びせ、インタビュースペースに飯島氏を急きょ呼びつけている。
飯島氏が退社、独立を本格的に考えたのは、このあたりだと思われる。番組収録はもちろん、記者会見や、映画・ドラマのクランクインとクランクアップにはかならず顔を出す飯島氏。仕事に厳しい反面、タレント育成に全力投球である姿勢に賛同するものは少なくない。
残留組と独立組−−。最終的に、どのような結果が下されようとも、SMAPが飯島氏に感謝する気持ちは永遠だ。